神殺しの男【神殺しファルーク】

18

 一体何が起こったのかすら、彼にはよく分からなかった。
 初めて見るような切羽詰った顔で、あの奇跡のように美しい男が自分の名を呼んだ。その細い指先が、自分に触れた。そのことに怒りも、喜びも感じる暇がないまま得体の知れない力に引き込まれ、彼の体はあっという間に泉の底を抜けて、地中の水路に呑み込まれていた。
 視界は全くの暗闇に閉ざされ、裂けるほどに目を開いても何も見えない。激しい水の流れに揉まれながら、ただ意思の無い木の葉のように、彼の体はどこまでも流されていくしかなかった。大量の水が鼻と口から流れ込み、その代わりのようにゴボリと嫌な音を立てて、肺から空気が逃げていく。息苦しさに眼裏(まなうら)が真っ赤に染まり、ガンガンという激しい耳鳴りとともに意識が途絶えそうになった。
 咄嗟に 「死」という不吉な言葉がふいに頭に浮かび上がり、彼は(おのの)いた。同時に死にたくないと、本能が訴える。
 こんな、訳も分からないまま地の底で死んでしまいたくない。ようやくあの男に逢えたのに。あの男へ復讐することだけを胸に、生き恥をさらしながらここまで必死にたどりついたのに、何もできないまま自分は死んでいくのだろうか? ここで死んでしまったら、これまで自分が()めてきた辛酸(しんさん)は一体何だったのか……?
「うぁっ、うあああああ――――――っ!!」
 どうしようもない悔しさに駆られ、わずかに残った空気を絞り出すようにして、水の中で彼は闇雲に叫んだ。実際には呼気が水中に漏れる濁った音がしただけだったが、憤りの限りを込めて絶叫する。
「あっ、ああっ! ああああ……」
 気づかぬうちに、激情のあまり彼は泣いていた。あとからあとから涙が零れ落ちたが、それもあっという間に水に流されて、頬にその熱を感じとることすらできない。残った最後の空気の塊を、嗚咽(おえつ)とともに彼は吐き出した。
「……ァルーク……」
 朦朧(もうろう)としながら、忘れられない名前を呟く。ポコリと小さな泡が唇からこぼれ、彼は無意識のうちに失った空気を求めて大きく呼吸した。しかし当然そこにあるのは、大量の水だけだった。
 ゴブッといっぱいに開かれた口の中に、水が流れ込んでくる。それにむせて咳き込めば咳き込むほど、さらに水を吸い込む羽目になった。あまりの苦しさに視界も意識も黒い闇に染められ、彼が死を確信しかけたその刹那だった。
 飲み込んだ水が突然熱を発し、彼の喉を焼いた。酸を呑み込んでしまったような激痛に苦悶しながら再び瞼を開いた彼は、自分の体内に起こっている異変に気づいた。
「……っ!? 」
 熱を発しながら体内に潜り込んできた水が、彼の細胞の一つ一つに強引に入り込んで、みるみるうちに隙間無くその体を覆っていく。水はまるで生きているようにざわざわと(うごめ)きながら、彼の体内に居心地のいい場所を求め、次々に侵入してきた。
 彼の体を支配し、侵略しようとする意図もあらわなおぞましい水の動きに、彼はぞくりと背筋を震わせる。
 体をのっとられるその不可思議な感覚は、彼にとって全く馴染みの無いものではない。むしろ馴染み深いとさえ言える感覚だった。
 かつて彼は「神子(みこ)」と呼ばれる輝かしい地位にあった。
 神を寄り憑かせ、神の意思をうかがう、神に選ばれたもののみが就くことのできる神聖な地位にあった時、彼は祈祷のたびにいつも奉仕する神に己の体を明け渡していた。その時も常に、自分が自分で無くなるような恐怖と恍惚にさらされていたものだ。
 だがこれはあの大いなる存在とは全く違う。もっと邪悪で、もっとおぞましいものだ。ただただ彼の体を喰らい尽くそうという欲求のままに、襲い掛かってきているに過ぎない。あまりのおぞましさに全身に鳥肌が立った。あの神以外のものが、この身体に宿ることは許せなかった。
 せめてこれ以上体内に入り込まれるのを阻止しようと、懸命に歯を食いしばる。だが内側に入り込んだ水の量は膨大で、しかも体の周りにある水すら、口からの浸入が難しいと分かるや、皮膚の微細な隙間をかいくぐってまで染みこんでこようとする。
 呼吸できない苦しさと、体中を異物によって侵される恐怖に、彼は無我夢中で暴れ狂った。しかしその力もあっという間に尽き果てる。
 悪しきものの侵入を拒めない自分にどうしようもない絶望を感じながらも、もはやこれ以上意識を保つことは不可能だった。やがてぐったりと力を失い、抵抗の意思を無くした彼の体をめがけて、内から外から無数の邪悪なるものが襲いかかって来る。彼の魂すら、水の中で食いちぎられそうになったその時。
 水の流れていく先に、周囲より一層濃い闇が不意に出現した。
 質量すら感じる、ねとりとしたその異様な闇が現れた瞬間、水の中に潜んで彼の体にまとわりついていたモノたちが、悲鳴を上げて飛び退るように一斉に離れる。明け渡されたその体を、真っ直ぐ近づいてきた闇がゆっくりと包み込んだ。意識を失ってうっすらと開かれていた彼の口の中に、ずるりと少しずつ、(くら)い闇が入り込んでゆく。
 まだ彼の体内に潜り込んでいたモノたちは、徐々に入り込んできた闇に気づくと激しく怯え、再び水の中に溶け込んで逃げようとした。しかし、逃げ場は全て闇にふさがれており、かなわぬままに闇の中に呑まれて消えていく。
 ゆっくり、ゆっくりと、彼の中を(くら)い闇が埋めていく。膨大な時間を費やしてようやく全ての闇が彼の中に入り込んだとき、閉ざされていた彼の瞼がふいに静かに瞬いた。
 二度三度と瞬きを繰り返し、やがてはっきりとした視線で周囲を見回す。光の差さない閉ざされた空間であるにも関わらず、まるで周りが見えているかのような余裕のある視線だった。呼吸できなくなってからもうどれだけ経っているかも分からないほどなのに、それを苦しがる素振りも無い。
 彼は水の中で大きく伸びをすると、激しい水の流れを無視してその場にまっすぐに立ち上がった。そしてふと背後を振り返って眉をしかめる。縄で縛られたままの己の両手を不快そうに見下ろし、視線にわずかに力を込めた。と、固く結ばれていた縄がばらりとほどけ、そのまま激しい水流の中に呑みこまれて行く。
 両手の自由を取り戻した彼は、感触を確かめるように手をニ三度握っては開いてを繰り返し、やがて満足そうににやりと唇に笑みを刻んだ。
「……こんな稀有(けう)な体が手に入る日が来るとは。思ってもみなかったぞ」
 そのしゃがれた低い声は、水の中にあってもはっきりと響いた。
 喜悦を堪えきれないように尚もしばらくくつくつと笑い、だがしばらくして笑いを収めると、何かに気を取られたように前方を見据える。邪魔そうに長い髪を掻きやりながらその場に佇むうちに、暗がりの先に淡い光が現れた。水に流されて、清浄なその光は、徐々に徐々に彼の方に近づいてきた。その光を視界に捉え、彼は瞠目(どうもく)する。
「……これはなんとついている。器だけでなく、こんな宝までが飛び込んでくるとはな」
 言いながら水の中に哄笑(こうしょう)を響かせると、近づいてくる光を受け止めようとするように、彼はその両手をゆっくりと大きく広げた。

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