――――静寂が張りついたように広がる、
茫漠とした大地を揺り動かし、凄まじい爆音が響き渡ったのはそれからまもなくのことだった。
数里離れたところからもはっきり聞こえるほどの、耳を裂く爆音は長く尾を引き、その音に被さるようにしてばらばらと砂塵が天から落ちてくる。わずかに明けかけた深い群青の空の下、砂塵は粉雪のように地上に、まばらに生えた草の上に、人々の頭上に降り注いだ。
そしてその砂塵の乱舞が一際激しく、渦状に立ち籠める真ん中に。
闇に滲むようにして佇む人影があった。
長い黒髪を風になぶらせたその長身の男は、横抱きに腕に抱えた細身の青年の顔を見下ろしながら、口許に薄く笑みを浮かべている。蒼褪めた瞼を閉ざして眠るその青年は、地下水路に落ちたはずのファルークだった。意識を完全に失ってしまっているのか、細かい塵に頬をひっきりなしに叩かれても微動だにしない。
砂塵の乱舞が一段落すると、ファルークの体を抱えたまま男は一歩二歩、先に進もうとした。だが踏み出した瞬間にガクッと膝が折れて、土埃をあげながらその場に前のめりに倒れ込んでしまう。
「―――っ!?」
ファルークの体も男の腕から放り出され、すぐ側の地面に人形のように力なく転がった。すぐに男は立ち上がろうとしたが、何故か突然体が泥のように重くなって思うように動かない。地に伏したまま枯れ枝のように細い自分の腕を重たげに持ち上げ、男は愕然と呟いた。
「……界が変われば、この体に作用する法則も変わるということか」
動かない体でもどかしげに地面に爪を立て、何とかもう一度起き上がろうとするが果たせず、弱々しくもがきながら男は苦しげに呼気を吐き出す。
「……が足りない。力さえあれば……」
悔しそうに呻きながらも、しかしそれ以上はどうにもならず、やがて男も力尽きたように両の瞼を閉ざした。
* * *
――まだほの暗かった辺りが完全に明るくなった頃、明け方の異常な音の正体を探ろうと、近くにいた隊商の人間が集まってきた。
わずか十数人程度の小規模なその隊商は、旅程に余裕があるのかのんびりと歩きながら、大小の岩の塊がごろごろ転がる荒れた大地を、慣れた足取りで進んで行く。たぶん音が響いたのはここら辺りだろうと口々に言いながら、視界を遮っていた大きな岩を回り込んだところで、そこに人が二人倒れているのを見つけ、男たちは足を止めた。
龍の爪にかきむしられたようにそこここが陥没し、不自然に荒れた大地の上にその二人はうつ伏せに倒れ、ピクリとも動く気配が無い。死んでいるのかと思って近づいていった男は、倒れている片方の旅人の異様な風体を見て呆れ声で言った。
「おいおい、何だこの男のこの髪は」
異常に長い黒々とした髪が、藻の如く地面の上に八方に広がっている。薄気味悪そうにしながらも、一応呼吸だけは確かめようと手を伸ばしたその男だったが、掻き揚げた髪の下から覗いた痩せさらばえ、衰えきった顔に、これはもう息は無いだろうとパッと手を放してしまった。
「それにしてもこの二人、何の荷物も持っていないぞ。一体どうやってここまで来たんだか」
辺りを見渡しながら、男がぼやく。死体だったらあわよくば荷物だけでも頂いていくものをと、残念そうにしながら何気なく倒れているもう一人の様子を確かめるために、横から伏せられた顔を覗き込み……。
あんぐりと口を開け放って、その男はその場で硬直してしまった。
「――信じられねえ…」
「何がだ?」
仲間の様子を不審に思って後ろから覗き込んだ別の男も、同じものを見てやはり言葉を失ってしまう。微かに腕を震わせながら意識を失っている男の肩を掴み、慎重にその体を仰向けにひっくり返すと、隠されていた美貌が日の光の下に露になり、その場にいた全員の男の目を一斉に釘付けにした。
「――男か? 男だよな」
「ああ、しかしこんな整った顔の男を見るのは初めてだ」
血の気の引いた面はごつごつしたところは無いが、女のようにふっくらしてもおらず、甘さの欠けた硬質な空気を纏っている。だがついぞ見たことの無い、拝みたくなるような完璧な面立ちに誰ひとり視線を逸らすことさえできない。
「息はあるようだが、一体どうしてこんなところにこんな別嬪が」
興奮に任せて口々に言い立てながらも、やがて隊商の人びとの話題は自然と、この美貌の男をこれからどうするかという方に移っていった。何人かが迷うことなく、欲の滲んだ声で言う。
「そりゃもう、売るしかないだろう。苦労して運んだ商品に大した値がつかなくて腐っていたが、砂漠の真ん中で思わぬ拾い物だ。こいつは上手く売りさえすれば相当な金になるぞ」
文化的に発達した海岸沿いの都市の一部では人身売買が禁じられているところもあるが、環境が厳しく、人々の身分も厳然と定められているこの辺りでは、人を売り買いすることは何でもないごく当たり前のことだ。優れた容姿の人間をこんなところで思い掛けなく拾ったことは、彼らにとっては砂漠の真ん中で金か宝石でも掘り当てたのに等しい。他の男たちも、この意見に口々に賛同した。
「問題はどこに売るかということだな。滅多なところに渡しちまったら、宝の持ち腐れだ」
売るとしたら一体どこにと額をつき合わせて思案に暮れていると、一人が思い出したように大きな声を上げた。
「そういえば、シファーヒムに最近大量に娼妓が集められているという噂は聞いたか? 歓楽街を拡張して人と金を呼び込もうと、背後には国の高官までが動いているとやらで、上玉を持ち込めば相当な値がつくらしいぞ。女じゃなくても、こいつならきっと……」
他の男たちも似たような噂を聞いたことがあったようで、なるほどと頷きあう。
「シファーヒムか。どうせ帰り道に通る街だし、おあつらえ向きかもしれん」
「あの辺りの上流階層には
稚児趣味の男が多いとも聞くしな。稚児というには年を食っているようだが、この顔なら何の問題もないだろう」
意見が一致して、不意に転がり込んだ儲け話に浮かれながら、男たちが数人がかりで慎重に意識の無い体を持ち上げた。一番立派な
駱駝の背中にくくりつけ、白い肌が日に焼けてしまわないようにと、大きな布で全身をすっぽりと覆い隠す。
一刻も早くシファーヒムに向かおうと、他の男たちも荷物を積みなおしたり、駱駝の手綱を取ろうと動き出した。隊商の中でももっとも若いにきび面の男も、自分の相棒の小さな
騾馬の元に駆け寄ろうとして、ふと足元に感じた違和感に眉を寄せた。何気なく下を見て、自分の足首に絡まっている節くれだった手が絡まっているのを見つけ、まだ少年と言ってもいい年頃のその若者は咄嗟に「ギャッ」と悲鳴を上げた。
倒れていたもう一人の男がいつの間にか意識を取り戻し、乱れた髪の隙間から黒々とした双眸をギラギラと光らせて、こちらを見上げていた。その血に飢えたような眼差しに背筋を震わせながらも、絡んだ手を外させようと、若者は咄嗟に片足を振り上げた。が、その足は宙でぴたりと動きを止めてしまう。
「え……?」
振り上げた足から力が抜け、若者は腰が抜けたようにへなへなとその場に倒れこんだ。呆然としながら若者はもう一度、「え……」と気の抜けたような声を出す。
「どうした?」
その妙な様子に気づき他の仲間が声を掛けてきたが満足に答えることもできず、ぱくぱくと口を開け閉めして、彼は陸地に放り出された魚のように無様にもがいた。何だか妙に体に力が入らない。一体どうしてと首をひねった彼は、自分の視界が捕らえた信じられない光景に、喉が裂けそうな悲鳴を上げた。
「ぎゃああああ……!」
つかまれた足首を中心に、自分の皮膚がみるみる干上がり、皺を刻んでひび割れていく。愕然と見開いた眼の縁がくぼみ、口許に深い皺が入り、濃い褐色だった髪もあっという間に干草のように色あせて、真っ白になる前にはらはらと抜け落ちていく。見る間に別人のように老けて哀れな様になってしまった若者が、「あ、あ、あ……」と怯えたように嗄れた声を漏らした。
思いなしか先ほどよりは
艶々と、赤みを増した唇をにいと不気味につり上げて、長すぎる髪の男が笑う。節くれ立った手が若者の足首を更にぐっと強く握りしめた。頼りない枯れ木のように、手の中の骨がぽきっと音を立てて折れる。若者は涙を流しながら悲鳴を上げ、そのまま背後にトサリと崩れ落ちると、見開いた目に虚空を映しながら呆気なく絶命してしまった。
「ひ、ひいい!」
その光景を呆然と見詰めていた隊商の男たちは、見るも無惨な姿になって朽ち果てた仲間の姿に震え上がった。「化け物だ――!!」と唇をわななかせながら叫ぶと、地に下ろしていた荷物を拾い上げもせず、腰の重そうな駱駝や騾馬を必死に駆ってその場から逃げ出す。乗りはぐれた男たちも後ろを振り返りもせず、尻に帆掛けて一目散に逃げ出した。
一瞬のうちに若者の命を吸い取ってしまった男は、逃げる彼らを追い掛けようとその爪先を再び伸ばす。しかし駆け出すには萎えすぎた己の細い足を見下ろし、ちっと悔しげに舌打ちして、足を途中で止めた。腹立ち紛れに、足元にミイラのようになって転がった哀れな死体を蹴り飛ばし、忌々しげに呟く。
「……たった一匹では、腹の足しにもならんな」
上空にはすでに太陽が天高く上っていた。ぎらぎらと凶悪なまでのその光を物珍しそうに眺め、暑さと眩しさに顔をしかめながら、地平線の彼方に消え去ろうとしている隊商の最後の後姿を視界に納める。分厚く顔を覆った髪を掻き揚げながら、男はひとりごちた。
「――まあいい。力さえ取り戻せば、すぐにでも追うことができる。楽しませてもらうのは、それからだ」
言いながら笑んだ顔は、先ほどまでのげっそりと憔悴した様子が拭われ、代わりに少しばかり若々しい生気が加わったようだった。吹き付けてくる熱した砂漠の風さえも楽しそうに受け止め、彼は荒れた大地を踏みしめて一歩ずつ、ゆっくりと歩き始めた。
――第一章 完――
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