神殺しの男【神殺しファルーク】
14
「――――っ!!」
いきなり腹に強い衝撃を受けて、ファルークは声も出せないまま、体を二つに折って苦しげに呻いた。
手首を拘束されていて両腕を使えない男が、唯一自由になる足で思い切り自分の腹を蹴りつけてきたのだと理解したのは、しばらく経ってからだ。
苦悶に眉根をゆがめ、腹を押さえながら呆然と上げた視線が、男のそれとカチリと噛み合う。漆黒のその瞳を見つめながら、どうしても相手の正体が信じきれずに、ファルークはもう一度「馬鹿な……」と呟いた。
次の瞬間、今度は肩口の辺りを蹴られた。容赦ない力にファルークの体は地へと倒れこんだが、蹴った男の方も両手が不自由であるためにバランスを保てず、勢いあまってバシャリと音を立てながら泥水のたまる地面に倒れ込んでしまう。
頭から泥水を被り、無様にもがきながら、男はなおもファルークを痛めつけるために必死で起き上がろうとした。
「そうだ、こんな馬鹿げたことはない! 何故、どうして私がまるで虫けらのようにこうして地面を這わねばならない。何故こんなことになった。言ってみろ、ファルーク!!」
荒く喘ぎ、血走った目で男が吠える。その言葉に身を切られるような思いに駆られながら、ファルークはもう相手の顔を見ることさえできず、両腕で顔を覆いながら、むずがる子どものような必死さで叫んだ。
「知らない……っ! お前など、知るものか。お前があの子であるはずがない!!」
「!?」
言葉に胸を突かれたように、男が大きく目を見開いた。傷ついた男の表情にも気づかず、ファルークは相手を否定する唯一にして絶対的な根拠を口に出す。
「ありえない。俺がシャー・ルカと別れたのは、たった半年前だ。たったそれだけの間にあの美しかった子が、お前のようにおぞましいモノに変わるはずがないんだ!」
そう、ファルークが愛しい少年と別れてから、まだ一年と時は過ぎていなかった。
髪の長さひとつとっても、たったそれだけの間にこれほど伸びてしまうわけもない。たとえ男が何と言おうと、どう考えても目の前の男がシャー・ルカであるはずがなかった。いや、ファルークはただ闇雲にそう信じたかった。
男はしばらく何も言わなかった。目を見開いたまま、大きな空気の塊を無理に呑み込んでしまったように苦しげに喉を震わせ、ただ愕然とファルークを見詰めている。
不意に訪れた沈黙を不思議に思い、ようやく上げた視線の中にそんな男の姿を見つけたファルークは、理由も無しに激しい罪悪感を覚えた。
「あ……」
咄嗟に何か言わなければと思った。だがファルークが掛ける言葉に迷ううちに、男は自嘲して唇の両端をわずかにひき上げる。
「おぞましい、か。確かにな」
もともとしゃがれていた声がさらにかすれて雨の中に消えて行く。しかし不思議とファルークには、相手が何を言っているのかが分かる気がした。
「だが、私は私だ……。そのことをお前さえ否定するのなら、私は、一体どうすれば……」
先ほどまでの荒れ狂う様が嘘のような心許なさで、絶望にくれたように笑いながらかすかに唇を動かす男の頬に、水が幾筋もの道をつける。
雨のはずなのに、それが男の流す涙に思えて仕方ない。
そして男のその頼りない様子が、ファルークの記憶を再び強烈に刺激した。
あの少年の許から逃げるようにして別れた時、我慢できず、最後に一度だけ振り返ったファルークの視界に焼きついた細い姿。
慟哭するのをこらえるように、ただ肩を震わせていたあの心細い姿と、目の前の男の姿が重なる。体格も、まとった空気も全く違うというのに、その哀しげな様子があまりにも似すぎていて、ファルークはたまらない思いに駆られた。
あの時、戻って抱きしめてやることができなかった少年の姿を追うように、ファルークの腕がゆっくりと持ち上がる。男を包み込もうとするように、その腕が動いた瞬間。地上を真昼のような明るさで照らし出していた光の柱が、凄まじい音を発しながら突然激しく明滅し始めた。
「なっ……!?」
あまりにも異常なその様子に、その場にいた三人とも鼓膜の痛みに顔をしかめながら、同時に空を振り仰ぐ。気づけば、もう神は意味ある『言葉』を発してはいなかった。ただ金属がきしるような異音を立てて、狂乱している。
その音に合わせるように、一本だった光の柱が耳障りな音とともに、見る見る幾筋にも裂け出した。その一方で、あれほど激しかった雨が急速に止みだしていることに気づき、ファルークは蒼白になる。
「いけない、駄目だ」
傍らの男が唇をわななかせながらしゃがれ声で呟き、何かを引きとめようとするように天上を見上げる様が視界の片隅に入った。ああ、この男には今のこの現象が何を示すものか分かるのかと、ファルークは呆然と柱を見やりながらやけに冷静な頭の片隅で考える。
以前同じような状況に陥った時、あの少年も自分の傍らにいた。そして、その決定的な瞬間を、自分とともに目の当たりにしている。
やはりこの男はあの少年と同じ人間なのかと、ファルークが絶望とともに思ったその時、目の前に雷が落ちたような、「ドシーン」という地面を揺るがす音が響き、赤い柱がちょうどその真ん中の部分からぱっきりと折れた。
上下に分かれた光は見る間に細かく分散し、硝子の欠片のように宙にキラキラと舞い落ちる。キラキラ、キラキラと、ありえない美しさで、地上に降り積もる前にふっと消えていく。
それが最後だった。
急速に雨が上がって行く。視界を奪うほどの勢いだった雨が小雨になり、やがてポツポツと水溜りを叩く音さえ途絶えがちになっていって、ポチャリと雨の最後の一滴が地上の泥水の上にはねる音とともに、最後の光の欠片が宙に消え去った。
――――神が、死んだ。
光の残像を追うように虚ろな瞳のまま、声にならない声で男が言う。
ファルークはもう言葉も無く、天を仰いで膝からくずおれた。
いつの間に夜が訪れていたのだろう。
神が消え去った後の地上を深い闇が覆い、地表を滑る水の音だけが、周囲を包んだ。
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