神殺しの男【神殺しファルーク】

13

「ファルーク……!」
 けして大きく無いその声は、しかし内に込められた怨念の圧倒的な重量感をもって、この豪雨の中でも不思議なほどに大きく耳に響いた。名を呼ばれたファルークは背後を振り返る。急転する事態に眼を白黒させていた長老も後ろを振り向き、「あっ」と驚きの声を上げた。そこに立っていたのは先ほど町の入り口に現れた、あの得体の知れない痩せこけた男だった。
「何故貴様が……」
 言いながら、男の両腕が不自然に後ろに回っているのを見て、長老は心底驚く。まさかただ立っているのも困難なこの雨の中を、両腕を括られたままここまで来たのかと、息を呑んだ。
 一方自分の名を呼ばれたファルークは、雨でかすむ視界の中、初めて会う男がギリギリと睨みつけてくるのにただ戸惑っていた。
 見たことも無い男だ。伸びすぎた長い髪のせいでその風貌ははっきりとは分からないものの、それでも一度だって会ったことがあれば、これほどの異形を忘れてしまうわけも無い。それなのに、その男は強い確信を込めてファルークを睨み据えてくる。
 ファルークの困惑を見て取ったのか、凄まじいほどの雨音をかいくぐり、男はひしゃげた声で語りかけてきた。
「――――私が、分からないか、ファルーク」
「……誰だ?」
 問い返すと、男がじりと一歩ずつ近づいてきた。間近まで来ても、濡れて顔中に張り付いた簾のような髪が邪魔をして、その素顔ははっきりと分からない。ただ透かし見える落ち窪んだ眼窩とくっきりと浮かび上がる頬骨に、男が哀れなまでにやつれ果てているのだけが窺えた。そのしゃがれきった声から相手の年齢は若くても壮年以上かと判断したが、記憶をどんなにまさぐってもこんな男とこれまで会った覚えは無いと確信する。だからファルークは正直にそう言った。
「お前なんかと会ったことはないぞ。一体誰だ」
 するとその言葉を聞いた男の眉間が一瞬歪んだ。その泣きそうに切なげな表情に記憶のどこかを刺激され、ファルークは少しぎくりとする。しかし男の頼りない表情はすぐに掻き消え、再び強い怒りを孕んだ眼差しが取って代わった。
「……お前が、塵芥(ちりあくた)のように捨て去った男だ。私から守るべき町を奪い、民を奪い、唯一無二の神を奪った貴様が、この私を忘れたというのか!」
「――――っ!?」
 血を吐くような男の叫びを、ファルークは一瞬理解できなかった。頭からつま先までを冷たい刃に一直線に刺し貫かれたように、体の真中を戦慄が駆け抜ける。
 これは誰だ。自分に過去の罪を突き付けるこの男は一体誰だと、激しく頭が混乱した。男が迫る罪に、ファルークは確かに覚えがあった。だがその罪を糾弾するべき相手はたった一人だ。間違ってもこんな男ではなく、自分が心から愛し、大事に思っていたあの少年だけのはずだ。
 そう思いながらも、ファルークは相手の姿を改めてまじまじと眺め、そして、再びぎくりとした。
 男の漆黒の髪が、雨に濡れてその全身に纏わり付くように広がっている。先ほどまでは砂にまみれてくすんでいたその髪だったが、激しい雨が瞬く間に汚れを洗い流し、本来の髪色をすっかり取り戻していた。
 黒い黒い、闇のような色のその髪。
 この西大陸では、濃い色の髪の人間を見かけること自体あまり無い。ましてやここまで純粋な黒色の髪を持った人間を、ファルークは今まで一人しか見たことが無かった。
 気づけば呆然とファルークの唇はその人の名前を紡いでいた。それはかつて自分が傷つけ、置き去りにしてきた少年の名。今も思い出すだけでファルークの心に血を流させる、たった一つの大事な名前。
「――――シャー・ルカ……?」
 見覚えた少年とは似ても似つかない姿をした異形の男は、呼ばれた名前を身じろぎもせずに受け止めた。髪と同じく濃い色をした瞳は、ファルークの問いかけるような言葉をしっかりと肯定して、こちらを睨みつけている。見ればその瞳の色もまた、あの少年と全く同じものだった。
 ぐらりと、足元が大きく揺らいだ。信じられず、ファルークは眼を大きく見開く。
「そんな……、そんな馬鹿な」
 大人びた気質とは裏腹に、どこもかしこも細く、幼いばかりの体を持っていたあの少年は、しかし東大陸からもたらされる高価な陶器の人形のように愛らしく、成長すればさぞかし美しい若者になるだろうと思わせる容貌を持っていた。
 それがまるで闇から生まれでた魔物のように、無惨な、恐ろしい体になって、いま自分の目の前に立っているというのか。
 少年の身に何が起きたのかは分からずとも、彼にとてつもなくひどい運命が襲いかかったことだけは、疑う余地が無かった。
「嘘だ……」
 怒りに任せた荒い足取りで、男が更に距離を詰めてくる。その彼から殺意すら感じ取りながらも、ファルークは一歩も動くことができなかった。

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