神殺しの男【神殺しファルーク】
12
「違うっ!」
記憶の中の声に逆らうように、ファルークは両拳をぬかるんだ地上に激しく打ち付けた。泥がしぶいて白い手と服の袖口を土色に汚したが、構わずに何度も何度もファルークは憤りを込めて地面を叩いた。
はるか昔に投げつけられた言葉に未だに呪縛されている自分が悔しくて、いつまで経ってもその言葉に反論することさえできない自分の力の足りなさがもどかしくて、怒りを何かにぶつけずにはいられなかった。
「違う……」
ぐちゃぐちゃの地面をうつろに見詰めながら、歯軋りするようにして呟くファルークを、傍らにいる長老は訳も分からずに眺めているしかない。
若い祈祷師に突然何が起こったのか戸惑いつつ、声を掛けるべきかも分からず座り込んでいる彼の上にも、激しい雨は容赦なく降り注いでいる。
その雨の重さに耐えながら、輝く眼前の光柱を見詰める内に、ふとたとえようも無く苦々しい思いが彼の胸中を満たした。
『――――愛とは、かくも残酷なものなのか……』
この町の住民全てが全身全霊で祈り、神に乞うても与えられなかったものが、今日初めてこの地を訪れた祈祷師一人のために、何の惜しげも無く与えられている。それはあまりにも不公平で、理不尽なことに思えた。
待ち焦がれた雨が天上から降り注いでくる喜びになお打ち震えながらも、それと相反する複雑な気持ちを持て余し、長老は鞭打たれているのかと錯覚するほど強い雨に必死で耐える。その勢いは未だ一向に弱まることはなく、長老は次第に不安を感じ始めた。
『これ以上雨が続けば、また別の災害がこの町を襲うのではないか……?』
干害によって存亡の危機の際にまで追い詰められた町を、今度はあらたに水害が襲ったならば、もう到底復旧できるものではない。金も食糧も底を尽き、住民はすでに疲れきっている。
「祈祷師どの」
まだ下を向いたまま動かないファルークに、恐る恐る呼びかける。雨を呼んでくれた恩人に対し、掛ける言葉は自然と丁寧なものになった。それでも隠しようない不安が、その声の下に色濃く滲んでいた。
「祈祷師どの、もうそろそろよいのではないか? 雨は十分降らせて頂いた。泉の水も、どうやら再び湧き出したようだ。もういいから、この雨をやませてくだされ」
その言葉は、必死に祈り続けるファルークの逆鱗に思い切り触れた。
『――――そんな簡単に、思ったように降らせたり止ませたりできるようなら、俺だって苦労はしてないんだよ!』
思わず殺気ばしった瞳で、ギロリと長老を睨み付けてしまう。完全に八つ当たりだったが、ファルークの涼しげでいながら、異様に艶のある美しい瞳に睨まれた長老は、恐れるよりも先に魂を抜かれ、せっかく一度は立ち直ったというのにまたもやぽかんと呆けてしまった。
真紅の光に照らされながら全身濡れそぼったファルークは、ただならぬその美貌にさらに凄絶さを増している。濡れてぴったりと張り付いた衣服の下から、今にも肌の色が透けて見えそうで、その色めいた感じは凶暴なほどだった。
急に言葉を失ってしまった長老を不審に思いながらも、まさか自分の色気に長老が当てられているとはさすがに欠片も思いつかず、ファルークは憮然と視線を逸らした。
長老の心配が無理からぬことなのは、よく分かっている。この事態を招いてしまった自分が何とかすべきなのは当然のことだ。しかしどれだけ必死に祈っても、興奮したままの神はファルークの制止を一向に受け入れない。
『―――もう、俺がこの場を立ち去るしか、方法はないかもしれない』
とうとう、ファルークの頭の中を、そんな弱気な考えが掠めた。
聖峰ガイエ・ランガで生まれた神は地上をさ迷い落ち着き場所を探すが、その時点で神はさしたる力を持たない。自分を必要とする人々のいる地に落ち着き、人々から捧げられる祈りを蓄えることによって、はじめて「神」と呼ばれる存在はその名にふさわしい力を持つことができるのだ。
神は人の祈りを蓄え、その力の恩恵が人に返る。その循環を繰り返すうちに、神はその土地に縛られて動けないようになる。人々の祈りが枷のようになって、神を地上に縛り付けてしまうのだ。いま天に昇った神が、その一部を地上からどうしても切り離せないでいるように。
だからこそ、神の力が尽きないうちに元凶であるファルークがこの場を離れ、その力の及ばないところにまで立ち去れば、暴走した神も次第に落ち着きを取り戻し、沈静化する。
事実ファルークは今までこのようなことがあるたびに、一目散に逃げ去って、神を騒がせた土地には二度と近づかないようにしてきた。そのための長い放浪生活であり、先ほど長老から前金をなるべく多くぶん取ろうとしたのも、祈祷を終えたとき自分がこの地にまだ留まっているとは限らないからだった。
なのに、はじめからそんな計算をしていてさえ、ファルークはなおもこの場を離れることをためらった。
一体いつまでこうして逃げ続けなければならないのか。それを思うと足がどうしようもなく鈍る。
かつて大事に、大事にしていた少年をどうしようもなく傷つけてしまった時に、自分の力をもうけして野放しにはしないとファルークは固く誓った。必ず力を使いこなせるようになり、二度と同じことを繰り返しはしないと心に決めたのに、今もまだその誓いを守ることができないままだ。
『だが、このままでは、この神まで殺してしまう……』
そんな最悪の事態を起こすわけにはいかない。もう二度と。
ぎりりと、思い切り唇を噛んだ。なおも逡巡した末、ついに心を決める。
『――――逃げよう』
敗北感に打ちのめされながらも、ファルークは長老がまだ呆けているのをいいことに、自分の荷物と、雨を含んでずっしりと重くなった外套を掴み取った。
まだガンガン頭に響く「声」でファルークの祈りをせがんでくる神に背を向け、数歩駆け出す。その時だった。
いきなりファルークの足元を、横殴りに凄まじい勢いの水が襲った。
「うわっ!」
咄嗟に流れてきた水に足を取られそうになり、慌てて体勢を整える。
荷物を寸前で手に持っていてよかった。一瞬でも遅ければ、荷物は流されていたかもしれないと冷や汗をかきながら、水が流れてきた方向を見やれば、先ほど水が蘇ったばかりの泉の表面に、まるで煮えたぎってでもいるかのように、ぼこりぼこりと大きな泡が立っている。
泉は尽きせぬ勢いで大量の水を吐き出し、それが不自然なほど一直線に、ファルークのいる方に向かって濁流となって流れ込んでくる。
「な、何だ!?」
襲い掛かってきた水に長老も慌てて逃げ腰になったが、すぐ傍にいるにも関わらず、水は一筋たりとも彼の方には流れなかった。
まるで地面に溝でも掘られているかのように真っ直ぐファルークの眼前まで迫ると、水はその足元でパッと高く跳ね上がり、しぶきとなって全身に降り注いでくる。頭からその泥水を被ってしまったファルークは、降りかかった水が自分の衣服を染みとおり、さらにその肌の奥まで潜り込もうとしていることに気づき、瞠目した。
『何だこれは!? 』
ファルークの全身に鳥肌が立つ。これはただの水ではない。
おぞましい感覚に耐え切れず、なんとか荷物を脇に抱え込んで両手の自由を得ると、先ほどの祈祷の時とは違った形にファルークはすばやく印を結んだ。口早に唱えるまじないの文句は、魔を払い、不浄なものが近づくことを防ぐ護身の呪だ。
たちまちファルークの全身を燐光のような淡い光が包み込む。清浄なその光を嫌うように奇妙な水はファルークの体から離れ、左右に分かれて、たちまちどこかへと流れて行ってしまった。
『今のは一体何だったんだ……』
奇妙な水を生み出した泉は激しく泡立っており、まるで生きて蠢いてでもいるようだった。逃げようとしていたことも忘れてそれに眼を凝らしたファルークは、泉から湧き立つ水の陰に何かが潜んでいることに気づいた。それも一つや二つではない。何かひどく邪悪なものがそこに潜んでいる。
その正体を見極めようと、泉に向かいなお眼を凝らしたその時、雨の烈しい音を引き裂くようにして、ひどくしゃがれた男の声が辺りに響き渡った。
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