神殺しの男【神殺しファルーク】

10

 ―――ぱしゃんっ、と。
 瞼の上で冷たい何かが弾ける感覚が、彼の意識を深い眠りの底から呼び覚ました。
 ぱしゃんっ、ぱしゃっと続けて顔を打たれ、冷たく濡れた感触に、それが水の雫であることをぼんやりと理解する。そしてひび割れ、血が滲むほどに乾ききった唇にもそれが触れた瞬間、恐ろしいまでの喉の餓えにいきなり火がついた。
 反射的に大きく開けた口の中に、吸い込まれるように数滴の雫が落ちてくる。体を潤すには到底足りないその量にかえって渇きが刺激されて、あまりのもどかしさに彼は思わず喘いだ。呻き声が漏れ、己の喉から流れ出したその異常なまでにしゃがれきった声に、ぎょっとして目を見開く。
 重い水滴をこぼし続ける黒く淀んだ空、今にも崩れ落ちそうな粗末なつくりの石塀と、その向こうにどこまでも続く、茫漠とした荒野。
 視界に映った景色は、彼にとって全く見覚えの無いものだった。
「―――!?」
 ちょっとした規模の隊商なら通り抜けることさえ出来ないだろうと思える、幅も高さも小ぢんまりとした石造りの門のすぐ傍に寄せ掛けるようにして、自分の体は寝かされているのだと分かり、咄嗟に起き上がろうとして、腕が自由に動かないことを知る。苦労して首を背中側に回してみて、どうやら両手が縄のようなもので縛られているようだと気づいた。目に掛かる大量の髪が邪魔で仕方なくてせめてかきやりたいと思うのに、どうすることもできなくて無性に苛立ちが募る。
 何とか立ち上がろうと不自由な体で四苦八苦していると、唐突に近くで子どもの高い声が上がった。驚いて視線を向けた先に枯葉色の髪の小柄な少年がいて、どんどん勢いを増して行く雨の下で狂ったように踊っているのが見えた。
祈祷師(ガラ)だ!」
 昂ぶる感情のままめちゃくちゃに踊りながら、その少年、ワリードが感極まって叫ぶ。
「おじいさまが連れてきた祈祷師だ。あの人が、この雨を呼んでくれたんだ!!」
 せっかく会いに来た異邦人が目の前にいることも忘れ、びしょぬれになりながらワリードは飛び上がって喜んだ。そして先ほどほんの少し見かけただけの祈祷師に、心から感謝を捧げる。
 ここしばらく村を覆っていた閉塞感に満ちた空気は、まだ幼い彼の心には耐え難いものだった。でもこれで祖父も両親も明るさを取り戻す。自分もしばらくはきっと好きなだけ水を飲めるのだろうと考え、嬉しさに堪えかねてぴょんぴょんと雨の中を飽かずに飛び跳ね続ける。
――――祈祷師(ガラ)……。
 少年の言葉を、男は胸のうちで何度か繰り返す。そして雨雲に覆われた暗い空をぼんやりと見上げ、視界を周囲にさ迷わせた。まるで誰かの姿を探し求めるように。
 その瞬間だった。いきなり地上から天までを突き刺すように、火を吹く火山のごとく、空気を切り裂いて真っ赤な光の柱が遠くに現れた。
「!?」
「な、何……?」
 その禍々しいまでの明るさに、浮かれきっていた少年も怯えた声を出す。間髪入れず天を突いたその光が刺激されたかのように、唐突にそれまでとは段違いに強い雨が降り始めた。
「ひいっ!」
 驚いた少年が咄嗟に頭を抱えてしゃがみ込む。男も(すだれ)のような髪の隙間から呆気に取られて天を見上げ、遠くにそそり立った柱を見詰め、そしてふいにこの異常な事態の原因に思い当たって、その眉間を激しい怒りに深くゆがめた。
 これは自然に降り出した雨ではない。神だ。神の力が呼び寄せた雨だ。そしてここまで凄まじい力を神から引き出せるような祈祷師は、彼の知る限りたった一人しかいない。
「お前か、ファルーク……」
 ぎりりと奥歯を擦り切れるほどに強く噛み締める。あまりにも鮮明に、焼きつくように記憶に刻まれた男の姿がまざまざと眼裏に浮かび、腹の底から息苦しくなるほどの憤りが一気に込み上げてきた。
 真紅の柱は激しい雨の中でますますその輝きを増し、まるで燃え立つように爛々と光を放っている。しかしその光の強さは一時的なもので、ひどく危ういものであることを彼はよく知っていた。
 あまりにも強すぎる力が使われているのは明らかだった。これほどに力を出し切ってしまえば、いかに人知を超えた不可思議な存在といえども、限界を迎えることがある。そう、かつて自分の人生とともにあった、あの愛しい神と同じように……。
「――――やめろ」
 まだ力の入りきらない足を奮い立たせ、腕を後ろにくくられたままで彼はゆらりと立ち上がった。足元を泥水が川のように流れていき、まっすぐに立つことさえ容易でなかったが、押し殺した憤怒の激しさが弱りきった体に力を与えてくれる。
 滝のような雨に為す術無く震えていたワリードが、憎悪を孕んだその声を聞きつけてハッと振り返り、虚空を見詰める男の異様な迫力に気圧されて震え上がった。その時ばしゃばしゃと水を跳ね上げ、自分の名を呼びながら必死に駆け寄ってくる人の姿を見つけて、ワリードは泣きそうな声を上げた。
「母さん!」
「ワリード!! 」
 視界さえも奪う雨の中自分を探しに来てくれた母の腕の中に、少年は何も考えられずに飛び込む。「母さん、母さん…」と泣き咽ぶ息子を、荒い呼吸のまま母親も全力で抱きしめた。
 そんな彼らを見ながら、またか、と男は思った。自分から神を奪っただけでは飽き足らず、この地の人々からも、まだ幼いこの子どもからさえそれを奪うのかと考えれば、あまりの怒りで気が狂いそうになった。
 気づけば、土砂降りの雨の中を、赤い柱に向かって一目散に走り出していた。そうしながら、喉から血が出るほどに叫ぶ。胸に満ちた激情を堪えきれず、吐き出すように呪わしい男の名を呼んだ。
「やめろ、また繰り返す気かファルーク!! 貴様は人の身で、また神の命を奪うつもりなのかっ!?」

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