神殺しの男【神殺しファルーク】

『人が嫌がっているのが分からないのかっ!? 分からないんだろうな……っ』
「神」と呼ばれる存在の無神経さ、自分勝手さを、祈祷師としてそれなりの経験を積んできたファルークは重々承知している。承知してはいるが生来の短気さから来る怒りを押し殺すのは至難の業だった。
『……そんなに祈って欲しいのなら、祈ってやろうじゃないか』
 祈祷を始めることに対し、どうしようもなく抱えていた躊躇いの気持ちを、激しい怒りが押し流して行く。慎重にことを進めなければならないと理性では思いつつも、熱くなった思考は「大丈夫だ、何とかなる」と根拠のない自信を抱き、馴れ馴れしく絡み付いてくるこの存在を一刻も早く取り除きたい一心で、ファルークは手早く両手を複雑な形に組み合わせた。
 親指と小指の先を触れ合わせ、残りの三本の指を交差させて、そのまま掌を上向ける。腕を折りたたんで組み合わせた手を腹の前に固定し、その場にどっかりと腰を下ろしてあぐらをかいた。そしていきなり決まりきった祈りの文句を物凄い早口で、棒読みに唱え始めた。
「永の年月この地を護りし慈悲深き神よ。貴方の愛と光を受け継ぐ子らに、どうかその恵みの手を差し伸べたまえっ……」
 信奉する神の種類にこだわらず、大陸中の子どもから老人までが口ずさむ、定型化された祈りの文句だ。あらゆる祭文の始めに、この一節は必ず入ってくる。
 しかしファルークの唱える言葉のあまりの抑揚の無さに、聞いていた長老は額に嫌な汗が流れ落ちるのを止められなかった。これほど心のこもっていない祝詞(のりと)を、彼は初めて聞く。ぶっきらぼうも甚だしく、無礼にも程があった。
『――――なんというふざけた男だ……』
 誠意ない祈祷が神の怒りを買うのではないかと案じ、強引に中断させるべきかとまで考えてハラハラする長老だったが、そんな彼をよそに神は機嫌を損ねるどころかますます放つ光を強くし、ファルークの唱える一声一声に歓喜するようにうねりだす。
 するとそれを感じ取ったファルークはますますへそを曲げたように不機嫌そうな顔になって、いっそう唱える祝詞を棒読みにし、よく舌を噛まないと感心するほどの速さで言葉を口にするのだ。一体何が起こっているのか。自分の常識では測りえない祈祷の様子に、長老は心底から困惑した。
 そんな長老の不安を思いやる余裕も無く、ファルークは体にまとわりついてくる神を実体さえあれば張っ倒してやりたいと思いながら、「大丈夫だ」と自分に言い聞かせていた。
 大丈夫だ、今度こそうまくいく。慎重に、慎重に力を使えば、きっと仕損じることは無い。もう二度と、失敗を繰り返すつもりはない。
 そう強く心に唱えると、ようやく祝詞を唱える口調はゆっくりと、丁寧なものになった。
 ……あなたの(しもべ)たる、民の苦しみを顧みよ。あなたに捧げんがため、慈しみ育てた作物、家畜が乾き、枯れ果てようとしていることを悲しみ、嘆くあなたの民を憐れみたまえ。わずかなりとも天から恵みの水を注ぎ下して、民の願いに応えよ……。
 腹の底にくすぶるような苛立ちを抱えつつも、できるだけ丁寧にはっきりと、祈りの言葉を紡いだ。間違われないように。自分の意図するところを、受け止める神がけして誤解することの無いように。ファルークは先ほどまでとは打って変わって、祝詞を噛み締めるように、ゆっくりと心を込めて唱えた。
 と、その願いが通じたのか、ファルークにまとわりついていた光がその体から離れ、天を目指してゆっくりと上昇をはじめた。長老が驚いて見上げるうちに、光は天上に達し、夕暮れ刻の空に馴染むように薄く広がり始める。
 最初はほのかに赤みがかっていたその空がすぐに彩度を落とし、黒々とした雲が周囲を覆い始めると、意図しない歓声が長老の口からこぼれ出た。その全身が(おこり)のようにわななき、震える。
「まさか……、まさか……」
 呆然とするその頬に、大きな水滴がポツリと一滴落ちた。ポツリポツリと滴は次々に乾ききった大地に降り注ぎ、みるみるうちに褐色の大地はその色を濃くしていく。ほどなく、辺り一帯が激しい土砂降りに包まれた。長老はその滴を受けながら、喜ぶよりも唖然として天上を見上げた。あまりにもめまぐるしい事態に、停滞した状況に慣れきってしまった脳が着いていけない。
 雨が降り出したのを確かめて、ファルークも祈りを中断して立ち上がると、暗い空を願うように見詰めた。このままでいい。これ以上強く降る必要はない。このままもう少し降り続き、そしてしばらく後に止んでくれれば……。
 気づけば、その唇を血が滲むほどに強く噛み締めていた。雨は徐々に勢いを増していく。ファルークの顔を、隠しようのない不安が過った。大地はすっかりぬかるみ、バチャバチャと降り注ぐ雨が地上で跳ね返って、ファルークと長老の衣服を股の辺りまで汚した。
 ふいに背後の泉からごぼり、というくぐもった音が聞こえてきて、驚いて振り返った二人は己の目を疑う。雨水が流れ込んで大きな水たまりになっていたその泉の一箇所に、いつの間にかぽっかりと、黒々とした穴が開いていた。そこからごぼりごぼりと泡立ちながら、水が噴き出してくる。あっというまに小さな泉は元通りの水位を取り戻し、さらに外に向かって勢いよく溢れ出した。
地下水路(フォカラ)が、蘇った……?」
 震える唇で長老が呟く。天から降り注ぐ雨と、地から噴き出す地下水が、凄まじい勢いで地上を覆い始めている。
『やりすぎだ!』
 ファルークは鋭く舌打ちした。考える間もなく再び祠の方を向き、服の汚れるのも構わずにもう一度しゃがみこんだ。そして口早に雨を降らせてくれた感謝の祈りを捧げ、もうこれ以上の恵みはいらないと神に強く訴えかける。しかしその祈りには、すぐに激しい反発が返された。

――――まだ足りぬ。もっともっともっと、何か願いは無いか無いか無いか

『何も無い、もう十分だ! 』
 固く目を閉じ、切れ目無く祝詞を唱えながら全身全霊で訴えかけるファルークに、駄々っ子のような神の意思が降り注ぐ。

――――足りぬ! もっともっともっともっと、お前のために

「声」とともに、祠が激しい音を立てて弾け飛んだ。露になった内部から、瓦礫(がれき)を跳ね上げながら先ほどまでを上回る鮮烈な光が現れる。光は地上にその一端を繋げたまま、先ほどの己自身の後を追うように天に向かってぐんぐんと昇竜のように伸び上がり、凶悪なまでに真紅の光を放って一面の大地を照らした。

――――お前のため、わが力の全てを注ごう

 次の瞬間、凄まじい量の水が頭上から降り注いだ。あまりの水の重さに、鉄槌で頭を殴られたような衝撃を受ける。
「うぉおおおお!」
 堪らず頭部を腕で庇いながら、押しつぶされそうになった長老が地面にしゃがみこんだ。鼓膜に痛いほどに、降り注ぐ雨の音が膨らんでいく。見れば泉から溢れ出す水も、ますますその勢いを増していた。このままでは水に呑み込まれて死んでしまうかもしれない。ファルークは恐怖と怒りに激しく喘いだ。叩きつける雨に逆らうように、天を睨みつけて渾身の力で立ち上がる。口の中に盛大に雨が流れ込むのも構わず、天に向かって絶叫した。
「ほんの少しでいいって言っただろうが! 人の話をよく聞け、この馬鹿神が――――!!!! 」

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