神殺しの男【神殺しファルーク】

 ――――それが泉だとは、そうと言われねば分からなかっただろう。
 木々の間を突き抜けた先に、地面の真中を大きな匙ですくい取ったような、ほぼ真円に近い陥没があった。その縁ぎりぎりのところまで導かれ、「これが泉だ」と長老に教えられて、ファルークは思わず深々とため息をついた。
『ここまでひどい状況になっていれば、絶望もするか……』
 泉とは言えど、そこから湧き出す水はすでに無い。底の方に僅かに泥水がたまってはいたがそれすらもうほとんど乾きかけ、ほぼ完全に干上がってしまっていた。生き物が()む場所ではなかったのか、生臭い臭いを感じることも無く、一切の痕跡を残さないまま無の状態に帰そうとしている泉の姿は、どこか物悲しく彼の目に映った。水が枯れて間もないためか、辺りに茂った木々はまだ生き生きとしてはいるが、このまま水が尽きたままなら、それも程なくして枯れ果てることだろう。
「!?」
 その時、突然何かが自分の体に触れてきた気がして、ファルークは視線を撥ね上げた。それは実感のある感触では無く、たとえば離れた位置から投げかけられる視線のような、そんなあいまいで不確かな感触だった。
 ちりちりと炙られるような気さえするその気配の出所を探して周囲を見回し、そして見つけたものにファルークは眉をひそめる。
 泉の向こう側の岸から少し離れた位置に、ささやかな(ほこら)/rp>が建てられていた。そちら側はなだらかに下る坂になっているようで、視界に入りにくくすぐには気づかなかったが、丸い屋根のついた円形の真っ白い建物は、小ぶりながら繊細な形で遠目にも美しい。
 その祠からゆらりと陽炎のようなものが立ち昇り、こちらに向かって揺らめいているのを視力とは別の感覚で感じ取って、咄嗟にファルークはフードをより深く被り直し、息を潜めて身をちぢこめた。こんな薄い布切れひとつで何が変わるわけではないと分かっていたが、そうせずにはいられなかった。
「――あれが、この町の守護神を祀る祠か?」
 心持ち顔をうつむかせながら長老に問うと、重々しい頷きが返された。
「そうだ。ミダ神を祀る社殿だ。ついて来るがよい」
 言いながら歩き出し、泉を回りこんで祠に向かおうとする。その後を、ファルークはついて行きたくなかった。本音を言ってしまえば、今すぐ背中を向けて、この場から立ち去ってしまいたかった。
 祠からはじわじわと熱のようなものが湧き起こって、ファルークの体を掠めて行く。形のないものが、触れたくて触れたくて仕方ないように、こちらに向かって寄って来る。
 肌が粟立った。唯一露出している口許をひん曲げて、なかなか歩き出そうとしないファルークを、不審そうな顔で長老が振り返る。「どうした?」と聞いてくるその顔にはありありと、『まさかこの期に及んで逃げ出す気か?』という疑いが刻まれていた。最善の交渉で仕事の前金を報酬の三分の一にまで値切ったとはいえ、またもや祈祷師に逃げ出されては堪ったものではないとでも思っているのだろう。
「……何でもない」
 ファルークにしても、まさか本当に逃げ出すわけにはいかない。彼には彼なりに、胸に秘めた強い決意があった。その決意を思い出し、萎縮する心を叱咤して、渋る足を励まして歩き出した。一歩近づくごとに、祠から発せられる陽炎がゆらゆらとその勢いを増す。まとわりついてくる熱気の不快さに、ファルークは眉間に深い皺を刻んだ。
 ほどなく祠まで辿り着くと、長老はその小さいが清らかな建物の正面に立つようにとファルークを促した。砂を丁寧に固めて作られ、壁を白く塗り重ねられたその祠の中はがらんどうで、大人ひとり入るのも精一杯なほど狭い内部には何も置かれていない。しかし空っぽに見えるのはあくまで視界の上だけでのことだ。そこに祀られているものの存在を、ファルークにははっきりと感じ取ることができる。揺らめく陽炎を頭上に見上げながら、確かに神がこの場所にいるのだと、わずかな怖気とともに思った。
『……眠っているのか』
 祠に祀られている神の気配は、幾分か細いものに感じられた。祠の内部でゆっくりと渦を巻きながら、とろとろとまどろんでいるらしい。雨を乞うて必死に積み重ねられた人々の祈りが、まだこの場に生々しく残っているのがファルークにも感じ取れるのに、それにすら顔を背けて神は寝入ってしまっている。
 ただ、眠りながらも磁力が作用しているかのように、その力の一部がこちらに向かって(うごめ)/rp>いていた。ぐいぐいと、まるでファルークが強引に引き寄せてでもいるように。全身に絡みつくように(まつ)/rp>わるその熱気をうっとうしがってファルークは無造作に手を振ったが、一瞬遠ざかっても、すぐまた陽炎は近寄って絡み着いてくる。
「もう二刻もすれば日が沈む。すぐにも儀式を」
 傍らにいる長老にさあ、と急かされて、ファルークは深い深い溜め息をついた。ひとり祠の中に入って祈るように促されているのは分かったが、逡巡した末、外に留まったまま儀式を行うことにする。祠の中にいるものに密着したくはなかった。
「預かっていてくれ」
 背負った荷物を肩から外し、そのまま長老に手渡した。動物の皮をなめし、太い糸でざくざくと縫って、肩掛けの紐を取り付けただけの粗末なその袋は、両手で抱え込める程度の大きさで、着替えと食料程度しか入っていないのか、大して重たくもなかった。反射的に受け取ってしまったそれを、長老は困惑気味の顔で見下ろした。
「中から何も取り出さなくていいのか?」
「何を?」
祈祷師(ガラ)には儀式に必要なものが色々あるだろう。供物(くもつ)は、祭具は、それに祭壇も。用意しなくていいのか」
 今までこの場所で祈りを捧げてきた祈祷師の姿を思い浮かべながら尋ねた長老に、外套の留め具を外しながらファルークが答える。
「必要ない。俺自身が供物であり、祭具だ」
「?」
 言葉の意味が分からずに眉根を寄せる長老に構わず、ファルークは留め具を外し終えた外套の前身ごろを開いた。そして数瞬を置いて覚悟を決めてから、被り続けていたフードを外し、外套を一気に脱ぎ落とした。
「――――っ!!」
 初めてさらけ出されたその素顔を間近に見て、長老は息が止まるかと思った。実際に呼吸することも忘れ、呆然と見詰めてしまう。
 これほどまでに美しい人間を、彼は今まで見たことが無かった。
 触れるのが恐ろしくなるほどに繊細で、一部の狂いも無く整った細面。温かみはあるのに血の色を感じさせない、不思議な色味の滑らかで白い肌。弓なりに弧を描く形のいい眉はほんの少しひそめられてどこか悩ましさを感じさせ、長い睫が影を落とす瞳は琥珀のようにとろりと甘い色をたたえて、光を孕んでゆるく輝いている。肩までで無造作に切り落とされた髪は金とも銀ともつかない微妙な色合いで、細い髪の一筋一筋が日差しにきらめき、重さを感じさせずにさらさらと風になびいた。
『なんと……、何という……』
 長老は思わずよろめいた。軽やかに舞う、光そのものが結晶したような髪から眼が離せない。その華奢で端麗な姿に、魂ごと引き寄せられる気がする。
 為す術も無く、理性など欠片(かけら)も介在する余地無く、目の前の男に惹き付けられる自分に長老は無力感さえ感じた。ただ姿形が美しいだけではない。その身に纏う空気、凛としたたずまいにまで言いようなく魅了されている自分が恐ろしく、切羽詰ったように何度も喘ぐ。
 そんな長老を流し見て、ファルークは(ひそ)めていた眉をますますしかめた。清廉さが際立つ切れ長の一重の眼をすがめ、薄めの唇をむっつりと引き結んで不快さを表明する。たださらけ出すだけでその場の空気を変えてしまう自分の顔が、彼は昔から大嫌いだった。こんな孫までいるような親爺に見惚れられたところで、一体誰が嬉しいものかと思う。
 それでも、惹き付けるのが人間だけであるならばまだよかった。この姿が、いやこの自分の存在自体が、何故かどうしようもないほどに吸い寄せてしまうもっとも厄介なものは……。


 厳しい顔つきでファルークは祠を見据えた。そして意識して潜めていた息を、深く深く吸って、再び大きく吐き出す。全身の力を抜き、次に丹田に力を込めて、それまで精一杯消し去っていた自身の気を解放した。
 すぐにその気配に反応して、祠に眠る神が喜びとともに目覚めるのが分かった。

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