神殺しの男【神殺しファルーク】

突然現れた奇妙な男の詮議を取り敢えず終えると、町の者に今後の指示を出してから、長老は急ぎ足で来た道を取って返した。
 途中で我が家に一度寄って、ワリードを嫁に預け、すぐさま家のほど近くにある庁舎に駆け込む。この町では唯一の二階建てだが、それ以外ではこれと言って取るべきところの無い、ただ石を積み上げただけの小さくて質素な建物だ。
「すまんっ、遅くなった」
 戸口に掛かる視線避けの垂れ布を跳ね上げ、謝りながら部屋の中に足を踏み入れると、待ちくたびれたのか客人は頬杖をついて寝入ってしまっていた。寝ていても相変わらず外そうとしないフードのせいでその顔を見ることはできないが、静かな空間にほんのわずか快い寝息が響き、小さな頭が前方にこっくりこっくり揺れている。
 彼を強引に起こすべきか否か、長老はしばし迷い、しかし一刻も早く町に雨をと気が急いて、ためらいながらも再び声を掛けた。
「――――お客人、起きてくれんか。早速儀式を……」
 言いながらその肩に両手をかけ、軽く揺さぶってやる。間近に立つと、その顔の下半分だけは僅かにうかがえた。フードの陰から覗く、女にさえちょっと見ないほどのきめ細やかな白い肌と、そこに映える鮮やかな色味を帯びた形よい唇に少し感心する。
 こんな肌と唇を持つ男は、一体どんな容貌をしているのかと、長老がフードの奥に隠された男の素顔に俄かに関心を覚えていると、見詰めていた唇がかすかに吐息のような言葉を紡ぎ出した。よく聞こえなかったが、それは人の名前のようだった。
 そういえば、先ほど町の入り口に現れた得体の知れぬ男も、他ならぬこの祈祷師の名前を呼んでいたのだと思い出す。
 あの男と何か関わりがあるのか聞きださねばと思っていると、まだ眠りが足りないのか、苛立ち混じりの呻き声を上げながら、ファルークがゆっくりと頭を持ち上げた。しばらく目の前に立つ男の身体を布越しの視線でぼんやりと眺めていたが、すぐに今の状況を思い出したようで、ハッとしたように慌てて椅子から立ち上がる。
「――――早かったな。用事は終わったか?」
 真っ直ぐに立つと、ファルークの方が長老よりも頭ひとつ分は背が高い。身長差のせいで下方から顔を覗かれるのを嫌うように、さりげなく布の片端を口許まで引き上げるのを目ざとく見咎め、何故そこまで顔を隠そうとするのかと不審を抱きつつ、長老は問いに答える。
「おかしな男が一人現れただけだ。何ということはなかった。……それよりもその男、お主のことを知っているようだったぞ」
「俺を?」
 奇妙なことに、ファルークはうんざりしたような声を出した。驚く素振りも無い。心なしか、その唇が『またか』と呟いた気がした。
『この男、何かまずいことでも仕出かして、そのせいで顔を隠しながら逃亡しているのでは無かろうな?』
 最前の話し合いの際に、値段の交渉にやけにしつこかったことなども思い出し、長老の胸にむくむくと黒い疑惑の念が湧き上がる。
「『ファルーク』と、お主の名を呼んでおった。心当たりはないか」
「……無いな。特に珍しい名でもなし、他の誰かを呼んだんだろう」
 そっけなくそう答えると、ファルークはそれ以上この話題を続けるのを嫌うかのように、長老を促した。
「さて、俺は祈祷するために呼ばれたんだろう。今すぐ始めるのか?」
 その性急な促しがまた、男の後ろ暗いところを感じさせ、長老は眉をひそめた。もう少し突っ込んで問い質したかったが、実際切羽詰っている状況がそれを許さず、仕方なく長老はとりあえずの追求を諦めて頷く。
「うむ。疲れているところを悪いが、事態は一刻を争っておる。ミダ神の許に案内するので、早速儀式をよろしく頼む」
「承知した」
 長旅を続けてきたにしては随分控えめな量の荷物を取り上げ、ファルークは先に外に足を踏み出した長老の後を追って、戸口をかいくぐる。室内を抜ける際、フードの端から一筋零れ落ちた男の細い髪が、外から漏れ入る日の光を弾いて輝いた。
 その繊細なきらめきに長老は目を奪われ、男の素顔に対する好奇心を再び強くする。妙に謎めいた男だと、そんなことを考えた。


 外に出ると、途端に熱風が頬を吹き付けてきて、慌ててファルークはいっそう深くフードを被った。ほとんど前が見えなくなってしまうが、これがなければ眼の水分さえカラカラに干上がって、二度と開くことができなくなりそうだった。
「もう三ヶ月だ……」
 重苦しい声で長老が呟いた。地面に張り付くように、僅かに生えている植物にまで乾いた砂がこびりつき、どこもかしこも土色に染まった町を、疲れたような眼で見渡す。
「最後に雨が町に降ってから、三ヶ月。期間としては長いが、そのくらい雨が降らないでいるのは、ここいらでは珍しくは無い。問題は、これだ」
 言いながら、指で足元を指し示した。そこには両手をいっぱいに広げたほどの大きさの穴が掘られている。よほど深い穴なのか、覗き込んでも真っ暗で、底まで見通すことはできなかった。
地下水路(フォカラ)か」
 事情があって大陸中を放浪しているファルークにとって、地下水路は初めて見るものではない。内陸部の乾燥地帯を旅すれば多かれ少なかれ必ず眼にする、人々の生活の生命線であるからだ。
 この穴の底には地中をうがって水路が掘り抜かれており、近在に降った雨水や、遠方からの雪解け水を流している。自然に崩れて拡張して行く水路から土砂を定期的に取り除くために、こうして地上から水路まで続く穴をあらかじめいくつも掘りぬいておくのだ。
 視線を前方に転ずると、同じような穴が30歩ほどにひとつずつ、規則正しく掘られていた。遥か先まで続くそれを見やりながら、ファルークは長老に尋ねた。
「これがどうした?」
「雨が降らずとも、地下水路(フォカラ)は常に水を運び、地下水路の水が湧き出す泉は、なみなみと豊かな水を満たしていたものだった。ほんの一年前までは……」
 言いながら、長老が手近な小石を拾い、それを穴の中に無造作に放り込んだ。乾いた音を小さく残しながら石はころころと転がり落ち、見る間に暗闇の中に消えていく。しかしいつまで待っても、石が地下の水を跳ね上げる音は聞こえてこなかった。
「――――兆候すら、ほとんど無かった。徐々に水路を流れる水の量が減り始め、打つ手も無く見守るうちに、ついにはすっかり干上がってしまった。それが一週間ほど前のことだ」
 沈鬱な表情で、長老は足元にぽっかりと開いた暗い穴を見詰めた。
「同時に、泉も湧き上がる水を失い、今では底に僅かな泥水を残すのみだ。わしの幼い頃から、いや、わしの先祖の時代まで見通したところで、これほどこの町が水の恵みから遠ざかったことは無い。一体どうすればいいのか、もはやそれすらも分からぬ」
 途方に暮れたように肩を落とす長老に、ファルークは問いかける。
「何か心当たりは無いのか? 突然こんなことになってしまった心当たりは」
 長老がまた歩き出しながら、首だけを横に振った。
地下水路(フォカラ)の手入れも、泉の管理も、わしの知る限り怠ったことは無い。水を粗末に扱って、ミダ神の怒りに触れたようなことも無い。もちろん、ミダ神への祭祀も怠り無く勤めておる。何もかもいつも通りに変わらず過ごしていたのに、災いだけが唐突にこの町を訪れたのだ。敢えて理由を考えるとするのなら……」
 口にするのさえ憚るように声を潜め、背筋を小さく震わせながら長老は言う。
「ミダ神の愛がわしらから薄れたか、町を守るミダ神のお力が薄れてしまったか、いずれかしか考えられん……」
 それは神と共に生きる者たちにとって、考え得る限り最も恐ろしい事態だった。長老は無意識の内に祈るように、老い皺の入った両手を胸の前に組み合わせた。

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