神殺しの男【神殺しファルーク】

 ――――遠くからその男の姿を見つけた時、長老は息を呑み、反射的に足を止めてしまった。腕を繋いで横を歩いていた孫のワリードが、突然の停止についていけずつんのめったようになって、口を尖らせて抗議の声を上げる。
「お? おお、すまんすまん」
 慌てて小さな頭を撫でて宥めながら、長老はまだ前方から視線を外せずに、上の空の声で尋ねた。
「……ワリード。さっき言っていた男というのは、あれか?」
「うん。……すごいでしょう」
 囁くように言われ、ただ頷く。確かに『すごい』としか表現できない。
 眼前には、その男を取り囲み、三重ほどの人垣が出来ていた。この町が雨の恵みから遠ざかって、はや数ヶ月。地下水路が干上がってしまってからも一週間が経ち、蓄えられていた幾許(いくばく)かの水と、遠くの町まで赴いて買ってくる水とで何とか持たせてはいるが、町の先行きはあまりにも厳しい。住民たちは絶望し、あるいは疲れ果て、家の外に出てくる者さえここ数日はまばらだった。
 そんな彼らが好奇心を抑えかねたように、町の入り口に集まってきている。神の教えによって、無闇に外に出ることを禁じられている女たちまでが、家々の戸口や窓からこっそりと顔をのぞかせ、畏怖と好奇の入り混じったベール越しの視線で、こちらを窺っていた。
 人の群れにゆっくり近づいていきながら、長老の頭は徐々に上向きにのけぞっていった。人垣の真中に立つ男は、そうしなければ傍からではその頭部を視界に入れることが難しいほどに、恐ろしく背が高かった。長老の右手をしっかりと握り締めている孫のワリードなどは、胸まで逸らして男の姿を眺めている。
 長老が左手を軽く振ると、応じて人垣が左右に割れた。遮るものが無くなり、男と真正面から向き合って、長老はもう一度息を呑んだ。
 異様な風体の男だった。黒いマントにすっぽりと覆われた身体は縦にひょろりと伸び、丈だけはあるが、生きているのが不思議に思えるほどに、げっそりと肉が削げ落ちている。骨と皮ばかりと言っても差し支えの無い、どこもかしこも尖り切ったようなその身体だけでも異常なのに、さらに驚くほど髪が長い。
 膝の辺りまで伸びた黒々とした闇色の髪は、砂漠を渡って吹き付けてくる風に流されて、生き物のようにうねうねと不気味に動いている。ざんばらに乱れた髪のせいで、男の顔立ちすら窺うことができなかった。しかもその髪の至るところに砂漠の砂が入り込み、ところどころが斑状にくすんだ色に染まっていて、さらに見る影も無い有様だ。
 ゴオッと、また強い風が吹いた。やせ衰えた男の長身はその風に耐え切れず、か細い葦のように、頼りなく右へ左へ小さく傾いでは揺らめいた。顔の見えない男の不可解な動きが、その異様さを一層煽る。長老は自分の背に冷たい汗が伝うのを感じた。
『……一体何なのだ、この男は?』
 これほどまでに凄惨な様子の人間を、今まで見た試しが無い。ふと視線を転じれば、男の黄ばんだ爪は全て指と同じほどの長さにまで伸びており、しかも手入れをすることもないのだろう、どの爪も先のほうが折れたり欠けたりして、ささくれ立って悲惨なまでにボロボロになっている。一体どれほど長い間、爪も髪も伸ばしっぱなしにされていたのか、見当がつかない。
「……何者だ。この町に、何の用があって来た?」
 ひるみそうになる自分を叱咤しながら、かろうじて長老が問うたが、男は何も答えなかった。それどころか言葉が聞こえなかったかのように虚ろな仕草で、じりっと一歩ずつ、足を地にこすりつけるようにしてひどくゆっくりと前方に進む。その緩慢な動きにさえ怯え、取り囲む男たちの足が反射的に同じ距離だけ後方に下がった。長老も孫を背中に庇いながら、僅かに後退ってしまう。
「――――…ゥク」
 伸びた爪のせいで奇妙に長く見える男の指が、何かを求めるようにふらりと宙をさまよった。そして霜が下りたように無数の白い筋が入った、乾き切った唇を動かし、何事かを呟く。だがその声は掠れ過ぎていて、誰の耳にも意味を持った言葉として届かなかった。ただその響きの異様さに、人々は圧倒される。喉の渇きにかすれてしまった声と言うだけでなく、声帯自体がどこかおかしくなってしまっているような、ひどくひしゃげて潰れた声音だった。
「ファルーク……」
 しゃがれた、地を這うような低音で、男がもう一度呟いた。その言葉を聞き取って、長老はハッと息を呑む。咄嗟に脳裏を、先ほどまで話していた細身の若者の姿が掠めた。
「貴様、あの祈祷師(ガラ)の知り合いか」
 思わず聞いてみた、その次の瞬間だった。髪越しにわずかに覗く男の眼が、ギラリと鋭く光った。
「……っ!」
 いきなり男の枯れ枝のように細い腕で胸倉を引っつかまれ、長老は目を剥く。それまでの鈍い動きが嘘のような俊敏さに、取り囲む人々が一斉に緊迫するのにも構わず、男は聞き取りにくい嗄れ声で長老に問うた。
「あいつを知っているのか?」
 ひどい異臭のする、垢と埃にまみれた顔をぐいっと近づけられて、長老は咄嗟に顔をしかめた。
「どこだ、どこにいる!? あの男は、ファルークはどこに……っ」
長老(オド)を放せ!」
 更に問い詰めようとした男に、周囲にいた者たちが飛び掛かった。手荒く引き倒され、その禍々しい外見にそぐわないあっけなさで、男は派手に土埃を巻き上げながら横向きに地に倒れ伏す。そしてそのまま、ピクリとも動かなくなった。
「……失神したか」
 鼻先に手のひらを近づけ、息のあることを確認しながら、男を取り押さえた青年の一人がぼそりと言った。
「見ろよ、この腕。赤子よりも細いくらいだぞ」
 めくれたマントの間からにょっきりと伸びる長い腕の、その棒のような細さに誰もが眉をひそめた。
「こんな体で、よくこの町まで辿り着けたものだ」
 呆れたように別の誰かが言う。手入れを欠くためか、妙にごわごわする髪を掻き分けると、げっそりとこけた頬に鋭く尖った顎を持つ、血色の悪い顔が現れた。深い疲労を表し、眼の下には濃いクマが浮き出ている。意識を失い、蒼褪めた瞼を閉ざして眠るその面立ちを改めて眺めてみると、意外なほどに年若いようにも思えたが、干上がってしまったかのような外見が男の年齢の判別を妨げた。
 過酷な砂の海の中を、これほどまでに衰えた身体で、しかも大した装備も無く、何故この男は渡ってきたのか。その執念を生み出しているものは何なのかと考え、長老は少しぞっとする。先ほどこの男が呼んでいた名前が気に掛かった。「ファルーク」と名乗ったあの青年は、この得体の知れない男と何か関わりがあるのだろうか。
 考え込んでいると、脇から遠慮がちに戸惑いを含んだ声が掛けられた。
「――――この男、一体どういたしましょうか、長老」
 尋ねられて取り押さえられた男を見下ろしても、意識を取り戻す素振りも無い。あまりにやつれた身体に、ともすればこのまま永遠に目覚めることもないかも知れぬと思いながら、長老は僅かに嘆息して首を振った。
「……放っておけ。どうせもう動くこともできぬだろう。取り立てて手を下すまでも無い」
「息絶えるまで、このままに?」
 男を哀れむでも無く、ただ通行の邪魔になるとでも言いたげな冷めた声に、長老もまた感情を見せずに指示する。今このような得体の知れない男にかかずらわっている余裕など、この町にはないのだ。
「道の脇に引きずっておけ。念のため、腕だけは括っておくように。だが足を括る必要は無い。逃げたなら逃げたで、こちらは一向に困りはしないからな」
 指示を出していると、男が意識を失ったことに安心したワリードが、おずおずと長老の背から出てきた。そろりと男の側に寄り、その長すぎる髪を引っ張ったり、汚れ切って見る影も無いマントをつまんだりして目を輝かせている。それを軽くたしなめてから、長老は誰に聞かせるとも無しに呟いた。
「全てはあの祈祷師次第だ。祈祷によってもし雨が降れば、この男にも水の一杯くらいは恵んでやろう。だがもし降らなければ、この男もこのまま果てるだけだ」

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