神殺しの男【神殺しファルーク】
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「長老、お話はまだ終わらないの?」
戸口からふいに高い声が響いて、向かい合っていた二人は同時に背後を振り向いた。
「……っ!?」
逆光におぼろに浮かび上がる少年の華奢な影法師に、ファルークは咄嗟に息を呑む。
ひどく懐かしく思える記憶が一気に胸の奥底から湧き上がってきて、フードの陰からその姿を呆然と見詰めていると、見据えられた少年はファルークの強い視線に戸惑うように、居心地悪げにもじもじと身じろぎをした。
「ワリード!」
少年の仕草で自分の視線の不躾さに気づき、ファルークが慌てて視線を逸らすのと同時に、長老が椅子から立ち上がって少年に近づいた。血の繋がった孫ででもあるのだろうか。先ほどまでの厳めしさが嘘のように穏やかな表情で、長老は手を伸ばし、少年の頭を優しく撫でてやる。
「お話なら今大体終わったところだよ。どうした?」
「町の入り口にね。変な人が来たの。それで父さんが長老を呼んで来いって」
「変な人?」
長老が聞くと、少年は困ったような顔をして、幼い仕草で懸命な説明を始めた。
「うーんとね、長老と僕を足したくらい、すっごく背の高い男なの。それでガリガリに痩せた体で、ぐちゃぐちゃの髪が膝くらいまで伸びていて、だから顔も見えなくて、汚くて……。とにかくすごいんだよっ。来てくれれば分かるから」
百聞は一見に如かずというのか、ワリードと呼ばれた少年はまだひどく細く頼りない腕でぐいぐいと長老の腕を引き、外に連れ出そうとする。
少年の拙い説明を聞いた長老とファルークは、思わず意味も無く怪訝な顔を見交わしてしまった。天を突くくらいの長身で膝までの蓬髪とは、一体どんな男だ。
「……何者だ。こんな町に」
眉をしかめながら長老がぼやく。ただでさえ大変な苦境にある町に、新たな厄介ごとが舞い込みそうな気配に眉間の皺を一層深めながら、椅子に腰掛けたままでいるファルークに向かってすまなそうに言った。
「悪いがしばらくここで待っていてもらえるか。用事ができたようだ」
特に急いでいる身でも無し、この町に来るまでも長旅を重ね、疲労が蓄積していたファルークは、しばしでも体を休める機会を得たことにむしろほっとしながら、了承の意を示して頷いた。
それを見て長老も頷き返すと、少年に何か語りかけながらその手を引き、少し急ぎ足で部屋を出て行く。無邪気な笑顔を浮かべた少年の姿が戸口に消えるのを、ファルークは物憂い顔で見送った。
あの年頃の子供を見ると、どうしても思い出してしまう少年がいる。
常に命令調の権高な物言いをしたその少年は、しかし人形めいた愛らしい容姿と高く透き通った声を持っていて、どんなに傲慢な態度を取っていても不思議と微笑ましいような、庇護欲を誘われるような、そんななんとも言えない温かな感情をファルークにもたらしたものだ。
ファルークの胸の辺りまでしか背丈が無かったのに、目一杯首を反り返らせ、指を突きつけながら、しょっちゅう些細で、少し生意気で、そしてひどく可愛らしい命令をファルークに下した。それは例えば「外の世界の話を私に聞かせろ」とか、「市場で売っているという菓子を食べてみたい」とか、「いつでも私の側にいろ」とか……。
耳に蘇る声に、ファルークの胸はキリキリと軋む。閉じられた世界の中で、小さな身体には堪えられないほど多くの人々の願いや祈りを常に背負わされ、しかし決して泣き言も不満も口にしなかったあの少年。
たまにひどく傷ついたような、寂しそうな瞳をして見せるのに、そんな時ほど彼は自分の弱さを嫌うように、強いて真正面だけを見つめていた。そんな幼い姿を見ていると、ファルークはいつも堪らないような気持ちになったものだ。
永遠に暗い檻の中に閉じ込められたままでいるかもしれないのに、華奢な手足で懸命に地面を踏みしめ、重責に必死で耐えていた。孤高で、高貴で、ひどく大人びていて、それでもやはり子供で、生意気で可愛らしくて、そしてファルークを一途に慕ってくれたあの少年。
ずっと流れ者の生活をしていたファルークは、人の愛情というものからひどく縁遠い生活をしていた。いや、むしろ自分の方から、そういったものを遠ざけていた。どれほど情を注がれようと、いつか自分を傷つけ、側から離れていく人間というものを彼は本能的に恐れていて、自分から手を伸ばすことがどうしてもできなかった。
そんなファルークにとって、あの少年から注がれた素直ではないけれどひたむきな愛情は、ひどく胸に染みるものだった。大事だったのだ。あの少年がひどく大事だったから、決して傷つけたくは無かった。それなのに……。
杭のように胸に突き刺さっている重苦しい過去の記憶に、ファルークは強く瞼を閉じる。痛みを堪えるように唇を噛み締めれば、薄い皮膚が切れて、じわりと舌に金臭さを感じた。
信じていた二つのものから同時に裏切られ、言葉にならない憤怒と屈辱と悲哀に打ちのめされて、ただ愕然とうずくまっていた小さな背中が、まざまざと眼裏に浮かぶ。胸が鋭利な刃物で突き刺されたかのように痛んだが、それももはや慣れてしまった痛みだ。少なくとも、自分があの少年の心につけてしまった傷の痛みは、こんなものでは無いはずだった。
――――あの少年は幸せでいるだろうか……。
そんなことはまず有り得ないだろうと知りつつも、ただ祈るように瞼を伏せ、ファルークは懐かしい少年の名を心の中で呼ぶ。
――――シャー・ルカ……。
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