神殺しの男【神殺しファルーク】
1
古びて薄汚れた机の上を、男の掌がバーンと勢いよく叩いた。
「冗談じゃない!」
その抗議の声とともに、机の上に積もった、からからに乾いた土ぼこりが、もわっと勢いよく舞い上がる。
思い切りそれを吸い込んでしまい、向かい合った男二人は同時に激しく咳き込んだ。空咳を繰り返せば、水気を失っている喉に切れるような痛みが走る。土ぼこりに触れてしまった手指は爪の中まで黒く汚れてしまったが、それを洗い落とせるような場所も今のこの町には無いだろう。
畜生、全くろくでもないと、深くかぶったフードの奥で、ファルーク・シャムーンは小さく毒づいた。
再び怒鳴りつけようと口を開いたが、咳が止んでも、乾きすぎた舌は喉に張り付くようで、なかなか思うように声が出ない。『水が飲みたい』と切実に思った。それは今、この付近にいる者全てが、心の底から願っていることだろうが。
「……前金が報酬の三分の一!? 冗談じゃない。半額が相場のはずだ」
呼吸を整え、どうにかざらついた声を出して、もう一度威嚇のために机を叩こうとしたが、さすがに一瞬躊躇い、手が中途半端に宙に浮く。その隙を突くように、向かい側に座った老年の男が険しい顔で、これだけは絶対に譲れないとばかりに言い返してきた。
「依頼を果たせないまま、前金だけを分捕っていく輩が多すぎるんだ。この貧しい町の者たちが、必死で出しあった大事な金を持ってな。悪いが、あんたも含め、祈祷師という連中を、わしらはもう無条件では信用できん」
祈祷師とは、この西大陸にあまねく散らばる千万の神に祈り、その恵みをもたらす、特殊な能力を持った人々の通称だ。神々と直接意思を通じさせることのできる彼らを人々は敬い、大切にするが、一概に外見や言動でその能力が判断できる職業でもないため、形ばかりの儀式を施して、善良な人々から金をせしめようとする拝み屋崩れの祈祷師もまた多い。
そのような輩から、よほどひどい目に遭わせられたのだろうか。しわ深い顔を激しい怒りに引きつらせ、こめかみには太い血管を浮かび上がらせながら、老年の男は乾燥してひび割れた唇が裂けて血を流すのもかまわず、口を大きく開けてファルークに向かい罵倒した。
「このシェッダの町は、泉の周りに茂った果樹と、泉から水を引いて耕すわずかばかりの畑地、そして泉の水を飲ませて養っている水牛どもで生計を辛うじて立てている、貧しい町だ。町を守るミダ神の庇護を失い、泉の水が干上がってしまえば、わしらはただ生きていくこともままならなくなる。そんな人の弱みに付け込んで、詐欺師どもが!!」
今度は老年の男の方が、バシンと平手で思い切り机を叩いた。さっきよりも激しく土ぼこりが舞い、二人は途端にむせて咳き込む。眼に埃が入ったためか、それとも感情が激しすぎたためだろうか、老年の男は涙を流しながら、真っ赤に充血した眼でファルークを睨み付けた。
「どいつもこいつも! 祈祷の一つもまともにできないくせに、自分を売り込む口上と、逃げ足だけは達者ときている。雨はおろか、雲のひとつも呼べないで、金だけを持ち逃げした連中が何人いたことか! おかげでこの町は文字通り、干上がる寸前だ!! そう何度も同じ失敗を繰り返せるものか。前金は三分の一だ。仕事が成功すれば、残りの分もきっちり払う。それで文句は無いだろう!!」
この町を守る長老としての強い気概を胸に、迫る老人にファルークは思わず圧倒される。だが、彼にもここで簡単には譲れない事情があった。とにかく、いま前金を少しでも多く頂いておかねば、後々悔やむことになるかもしれないのだから。
妥協してしまいそうになる自分の弱い心を抑え、しいて強い口調でファルークは交渉を続けた。
「そんな詐欺師どもと俺を同列にされたって困る。依頼は必ず成功させる。前金は報酬の半額だ。それだけは譲れない」
告げながらも、また喉がヒリヒリと痛む。目の前の男の涙を見れば罪悪感が胸にこみ上げてくるが、たとえどんな形であれ、依頼を成功させる自信がファルークにはあった。だからこれは罪でもなんでもないのだと自分に言い訳する。だが彼のその言葉は、長老の怒りを煽っただけだった。
「なぜそれほどまで前金にこだわる!? 自信があるのなら、支払いはたとえ全額後払いだってかまわないはずだろうが。どうしても半額にこだわるのなら、あんたも今までの奴らと同じ詐欺師と見なす。契約するつもりも無い!」
そういう長老の眼にはすでに色濃く、ファルークへの不信の念が浮かんでいた。
この町がこれほど水不足に悩み、祈祷師の一人を呼ぶにも困難なほど辺鄙な場所に無ければ、きっと前金半額を提示した時点で、ファルークはとっとと町の外に蹴り出されていたことだろう。
そもそも全身をすっぽりと長衣で覆い、フードで顔を半分以上隠していてもすぐに分かってしまうファルークの若さや、男にしては厚みの足りない体が、長老の猜疑心をどうしようもなく刺激しているのは間違いがなかった。祈祷師は年齢や経験でその実力が決まるものではないが、人間は得てして、そういう分かりやすい条件で相手の実力まで判断してしまうものだ。
このままでは、本当に全額後払いを強要されてしまうかもしれない。仕方が無い、ここらで妥協するしかないかと思いながらも、それでもなかなか決心がつかず、往生際悪くファルークは悩んだ。
『半額がダメなら、せめて五分の二、いや、九分の四くらいは……』などとせこく考えていた彼の思考を読んだわけではないだろうが、なかなか折りよい返答をしないファルークに長老はイライラと口を開く。
「あんたが、双つ名を持つほどの祈祷師なら、わしも無条件であんたを信頼し、前金どころか依頼金全額をこの場で払う。だが、そうでもなければ妥協するつもりはない。なんと言われようと、だ」
「双つ名? そんなものとうの昔に……」
咄嗟に口走りかけて「しまった」と思い、ファルークは慌てて口をつぐむ。
「とうの昔に? 何だと言うんだ」
不審そうに問い掛けられ、背を冷や汗が伝う。“双つ名”は、祈祷師に与えられる最高の称号だ。それを持つ者はこの広い西大陸全土にも、両の手指に足るほどの数もいない。
だが……。
にわかに落ち着かない素振りになって忙しなく指を組みかえるファルークの様子に、長老はいぶかしげに問い掛ける。
「――――ひょっとして、あんた、双つ名を持っていると言うんじゃなかろうな?」
半信半疑の顔で聞かれて、額にもじわりと汗が滲んだ。フードに遮られてこちらの表情は隠されているというのに、無意識のうちに長老の眼差しから逃げるように、ほんの少し顔を斜めに背けてしまう。
「……まさか」
否定するしかなかった。そして苦々しいため息をひとつこぼし、ファルークはようやく渋々と了承する。
「わかったよ。前金は三分の一だ。それで手を打つ」
当然だとばかりに重々しい頷きを返した長老を前に、ファルークはもう一度だけ長いため息をついた。
この大陸中に数えるほどしかいないという、双つ名持ちの祈祷師。その力は海を割り、地を裂き、風雲雷霆すら自在に操るという、稀有な存在である。
ファルークはその希少な存在のうちの一人だった。そして同時に、けしてその称号を名乗ることができない、因果な身の上でもあった。ファルークが背負う“双つ名”は、その力が最高のものであることを証明するとともに、この大陸の信心深い住人たちには最も忌まれるものであったから。
「神殺し」ファルーク。
それが、男の持つ双つ名だった。
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