[懐古]




 貴君からの便りを待ち(なが)(この)手紙を書いてゐる。紫、元氣にしてゐるか。身體(など)壊してはゐないだらうか。
 本日電報で伝へた通り、小生は無事試験を通過して、(この)九月から倫敦大學の正式な研究員に()る事が決まつた。歸國(きこく)は来年八月だ。会へない日々が続くが、だうか小生の(かへ)りを樂しみにしてゐて欲しい。
 近頃小生は貴君の事をよく思ひ出す。小生の記憶に残る貴君は、何時も少し寂しさうに微笑(ほほゑ)んでゐる。貴君からの便りが無いので、小生も少々氣弱に成つてゐるやうだ。今、貴君は仕合(しあは)せに笑つてゐるだらうか。如何(どん)な些細な事でも()ひ、貴君の近況を聞かせて()れたまへ。

西暦一九一二年 八月十五日

異國()て盆を迎へて 松永栄一郎
相澤 紫殿






 松永、研究員試験合格御目出度(おめでた)う。つい先刻(さつき)電報を受け取つた処だ。遠方から度々の便りを頂戴し、本當(ほんたう)に有難く思つてゐる。
 貴兄からの便りは何時(いつ)も樂しみに拝讀してゐる。貴兄の活躍を聞く度に、小生も我事(わがこと)(やう)に嬉しく又誇らしい。返事が大変遅くなつて仕舞つた事、本當に申し譯無かつたと思つてゐる。だうか小生の無精を赦して呉れたまへ。
 此方も報告が遅くなつて仕舞つたが、小生はこの八月で大學を()し、群馬の實家(じつか)へ歸る事になつた。貴兄の凱旋を東京で迎へられない事、心から申し譯無く思ふ。貴兄の益々の栄達を、遠い國から願つてゐる。

大正二年 八月十五日

相澤 紫
松永栄一郎殿






 實家へ歸るとの旨、突然の事で驚いてゐる。(さて)は祝言でも決まつたか。若し(さう)ならば正直に教へて呉れたまへ。此方から御祝の品を送らう。
 今日、夕暮の空を見上げた処、西の空に(しろ)い月が浮かんでゐるのを見附けて、ふと懐かしくなつた。何時(いつ)だつたか、貴君と二人でこんな空を見上げ(なが)ら、将来に()いて熱心に語り合つた事があつた。逢へないと思ふと無性に逢ひたくなるのだから、つくづく理不尽なものだと思ふ。
 逢ひたい。貴君に逢つて、心行く(まで)語り合ひたい。一年後を今から心待ちにしてゐる。

西暦一九一一年 十月一日

遠き國から貴君を想つて 松永栄一郎
相澤 紫殿



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