白鳥奇譚
七
「常磐」
隆嗣が呼ぶと、麗容の稚児はあわい灯の中でおっとりと振り向いた。薄暗い庵の中でも、常磐は肌の内側から光を発するようなうつくしさを湛えている。
「こちらへ来てみよ。
佳
い月だ」
数日ぶりに霧の晴れた窓辺へ誘うと、繕い物を手に、常磐は少し迷うような素振りを見せた。それから灯明を消して立ち上がり、こちらへ近寄ってくると、一条、筋を引いて差し込む月影を憂わしげに見つめた。伏せた目蓋は青白く、まるで今にも月光に消え入ってしまいそうな風情である。
「常磐」
隆嗣の声にはっと我にかえった様子で、常磐は微笑んだ。そして、おもむろに窓の
格子
をずらし、閉じてしまう。とたんに庵室は暗闇に飲み込まれた。
「それでは月が見えぬではないか」
「お察しくださりませ」
常磐は、闇にも鮮やかに艶めかしい笑みを浮かべる。
「月にも
悋気
を起こすと言うか」
「今は、月よりもわたくしのほうを愛でていただきとうございます」
拗ねたような口ぶりについ笑ってしまったが、すぐに堪えきれなくなり、細い手首を引く。常磐はあらがわず、隆嗣の膝に乗り上げた。その身体から、えもいわれぬ妙なる香りが立ち上る。
「月が満ちるのを憂うのは、竹取の
翁
の養い子であったな……」
戯れるような口付けの間に、隆嗣は独りごちた。常磐はかすかに笑ったようだった。
「わたくしは月の神仙などではございませぬ」
「そうか」
隆嗣も微笑んだ。おだやかな触れ合いは、静かに彼のこころを満たした。
「そなたがたとえ何者であろうと、おれの気持ちは変わらぬよ」
その一言に、常磐はひどく驚いた様子で口唇を離した。探るような視線がこちらを見つめる。隆嗣はまた少し笑った。思いがけない常磐の驚きようが可愛いらしく、また、おかしかった。
初めて常磐を抱いたのは、まだ昨日のことだ。だが、この一両日の間、身体を重ねた数は片手に余る。我か彼かも見失うほど甘美な交情を繰り返し、まだ常磐が只人であると信じていられるほど隆嗣は色事に疎くない。人ならざる者――それが神仙と呼ばれるものか、はたまた狐狸妖怪の類なのか隆嗣にはわからぬが、常磐が知られたくないと言うのなら、知らずともよいと思えた。そう思ってしまうほど惹かれている。潔く認め、いとしい身体を抱きしめる。
「だが、もし月に昇るときが来るなら、おれも連れて行くと誓ってくれ」
――なよ竹の姫のように、自分独りを残していくことはないと。
真情をこめてささやくと、腕の中の身体が小さく震えた。隆嗣の肩口に
目見
をあて、声もなく常磐が涙を零すのが、濡れた感触で伝わった。なにか、わけのわからない焦燥が胸裡にわき上がり、隆嗣は常磐を抱く腕に力を込めた。
「では……」
喘ぐような、喉奥から押し出すような声で、常磐はささやいた。
「では、どうか、来世も片翼を寄せ合う鳥のように……」
「ああ、この手を一つ枝にもつ双樹のように……」
互いの手指を絡め、白い手の甲に口付ける。
しどけなく
頽
れる肢体を衾の上に延べ、ゆっくりと情を交わした。今までにないおだやかさに常磐は震え、焦れ、甘く啼いた。
「どうか……君様、どうか、もっと奥まで……」
何かに急かされるように、常磐は無心に隆嗣を求めた。互いに高みに駆け上り、共に果てる、その間中、静かに涙を流し続けた。
「常磐……常磐、どうした。何をそれほど憂うことがある」
交情の余韻にしっとりと湿った肌を抱き寄せ、問う。常磐は首を振り、口元だけで微笑んだ。
「しあわせなのです、隆嗣様」
「ならば、何故それほどまでに悲しそうなのだ」
途方に暮れた気持ちで問うと、常磐は
気怠
げに身を起こし、まだ
火照
りの残る肌に単衣を着けた。そうして、枕元から隆嗣の太刀を引き寄せる。鞘から抜き、隆嗣に押し付けるように渡した。
「常磐……何を」
とまどいを隠せぬまま常磐を見つめると、常磐はまっすぐにこちらを見つめ返した。
「お話いたします。……けれど、その前に一つだけ、お約束いただけませぬか」
「……聞こう」
「どうか……最後までお聞き届けいただきましたら、どうぞ、隆嗣様のお手で、わたくしを殺してくださりませ」
「……っ、……なにを…………」
驚愕を隠せず、隆嗣は絶句した。たった先ほどまで、あれほど熱く情を交わした、同じ恋人の口から聞くことばとは思えなかった。
「何故そのような……おれにそなたが殺せるはずがなかろう」
「理由ならございます」
感情を噛み殺したような声音で常磐は答えた。
「わたくしは、サトリでございますゆえ……」
隆嗣は一瞬、告げられたことばの意味を捉えられなかった。
(サトリ…………常磐が、……これがサトリだと!)
理解した瞬間、目の前が真っ暗になり、隆嗣は無意識に手の中の柄を握り直していた。
どこからともなく差し込む月影が、常磐の花顔を浮かび上がらせる。常磐ははかなげに、けれど、すべてを覚悟した表情で微笑んでいる。
(逃げる気は……ないのか……)
本心から偽りなく自分に殺されるつもりなのだと知り、隆嗣は愕然とした。昏い絶望が足下から這い上がってくる。
(嘘だ!)
「真実そうだと言うのなら、おれのこころを読んでみよ!」
常磐ははっと顔を上げた。なんとも言えぬ、悲しげな表情でこちらを見つめた。その視線に胸が痛む。
(そんな目でおれを見るのか……)
「…………おやさしい方」
常磐は呟き、涙を呑んだ声で告げた。
「嘘だ、と………信じられぬと、思っておいでです。それから、“そんな目でおれを見るのか”と……」
常磐はかすかに微笑んだ。
「わたくしが悲しいのは、隆嗣様、結果としてあなた様を
欺
いたことでございます。初めよりそのつもりはなかった、……と、……申し上げることはできませぬが、…………あなた様をお慕いしました気持ちには、一片の偽りもございません。ですから……」
死ぬことよりも――殺されることよりも、気持ちを疑われることの方がつらい。どうかその気持ちだけは信じてほしい――そう告げる常磐の表情に胸が締め付けられる心地がする。いとおしさが胸にこみ上げ、隆嗣は奥歯を噛み締めた。こんなにいとしい相手が人を食らう妖怪であるとは――やはりどうあろうと信じがたい。
「サトリは、……人を食らうと聞いた。大納言様の末のご子息を食らい、それゆえ追っ手をかけられて、この山に逃げ込んだのだと……」
(そなたが人を食ろうたというのか……!)
「……食らいました」
隆嗣の内心の呻きに響くように、常磐は微笑んだ。決然と、鮮やかに。
「何故だ!」
厳しい詰問に首を振り、常磐はなおも微笑み続けた。そうして、花の口唇で残酷なことばを吐くのだ。「迷うことはないのです」と――。
静かな声音であった。
「あなた様は、この山に入られたときからずっと、サトリを殺すおつもりでいらっしゃいました」
(そうだ……おれに課せられた命は……)
――サトリを殺し、その首、主上に献上すること……。
呆然と手の中の太刀と常磐を見比べる。
常磐はすべてを悟った顔で頷いた。
「あなた様のなすべきことをなさりませ」
言われるまでもない。サトリは人を食らう妖怪。現に公卿の子を食らったと、常磐自身が認めている。斬るのに何を躊躇うことがあろうか。殺してその首朝廷に献上すれば、隆嗣だけでなく白鳥へのおぼえもめでたかろう……。
手にした柄を握り締める。じっとりと滲み出した汗が滑り、両手でようよう柄を支えた。
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