白鳥奇譚

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(だが……)
 白刃を常磐に向けてなお、隆嗣はそれを振り下ろすことができなかった。
 ――片翼を寄せ合い飛ぶ鳥のように、
    繋いだ手を一つ枝にもつ双樹のように……。
 二度と離れることはないと、契りのことばを求めたのは己自身ではなかったか――。
 隆嗣の胸裡にわき起こる激しい葛藤を、常磐は哀憐を湛えた瞳で見つめていた。
「……」
 ――切れぬ。
 力なく、己こそが傷ついたように切っ先を降ろす。その様を、常磐はせつなげに見つめた。
「おやさしい方……」
 伏せた睫の先からひとすじ、水晶のような涙が頬を滑り落ちる。
 再び開いた瞳には、なにもかもを悟り尽くした老人のような諦観があった。
「もう遅いのです、隆嗣様。間もなくお迎えの方がいらっしゃいます――わたくしは、いずれ逃げられませぬ」
「……!」
「後生でございます」
 常磐は懇願する口調になった。
「死を賜るのなら、隆嗣様……どうか、あなた様の御手ずから、最後のお情けをくださりませ」
 まるで (ねや) での愛撫をねだるように、必死な口調の内には、どこか甘美な響きがあった。
 それでも刃を上げられぬ隆嗣に、常磐は自ら隆嗣の握る剣の切っ先に喉元をあてがう。触れた先から鮮やかな紅の血が滴り落ちた。
 震える刃の両端で、二人の目が合った。
 一人は 静謐(せいひつ) な覚悟を湛え、一人は振り切れぬ 懊悩(おうのう) と困惑を湛えて――。
 息詰まるような緊張を解いたのは、隆嗣の微笑だった。
 不意に向けられたおだやかな笑みに、常磐は、虚を突かれたように目を瞠った。
「よい、常磐」
「……」
「おれには、どうしても、おまえが理由なく人を食い殺すようには思えぬ。いや、もしかすれば、おまえたちにとっては、人はただの餌なのかもしれぬ。それでも、おまえはおれを助けてくれた。おれがおまえを殺すつもりとわかっていたのに、だ」
「それは……」
「おまえがおれを愛したのが真実であるというなら、おれはそんなおまえを愛したおれを信じよう」
 何を告げられたか、常磐はすぐにはわからぬ様子であった。それから零れそうなほど目を見開き、大きく首を振った。
「いけませぬ!」
 今までの何よりもつらそうな目をして、常磐は首を振り続ける。
「なりませぬ、隆嗣様……」
 隆嗣もまた首を振って、常磐を見つめ返した。
 どれほどそうしていただろうか、ふと常磐が微笑んだ。かと思うと、にわかに距離を詰め、涙を呑んだ笑顔で、そっと隆嗣に口付けた。
 「君様……隆嗣様、お慕いいたしておりました」
 万感込めた声音で告げて、庵から駆け出して行く。
 「常磐っ?」
 慌てて後を追った隆嗣の目に飛び込んできたのは、手に手に 松明(たいまつ) を掲げ、ぐるりと庵を囲う里の追っ手と、その中へ駆け出した常磐の姿だった。折しも幽谷の霧は晴れ、天から差し込む月光が、さやかに常磐の麗容を照らし出す。それはかのなよたけの姫もかくやという、夢のようなうつくしさだった。
 里の人間ばかりか、隆嗣ですら息を呑む。
 しかし、それも一瞬のこと、光を浴びた常磐の身体に異変が生じた。峰の白雪のような肌におぞましき剛毛が生え、瞬く間に全身を覆う。若鹿のように華奢であった体はみるみるうちに節くれ立ち、六尺ばかりに膨らんだ。見る者を本能的な恐怖へと駆り立てる、 炯々(けいけい) とした両の眼。生臭い獣の臭い。
 そこにはかの美貌の稚児の面影は欠片もなかった。ただ、うぞうぞとむくつけき獣毛が全身を覆う、卑しき化物の姿に、隆嗣も、里の追っ手も、別の意味で息を詰めた。
「常磐……!」
 ようやくわかった。連日谷を閉ざし続けた深い霧。さりげなく月光を避けていた常磐。
(常磐……)
「若様!」
「隆嗣様っ」
 隆嗣の姿に気付いた里の者が声を上げる。その中には、幼少より隆嗣を慈しんでくれた人々の姿もあった。
「……サトリだと思ったな」
 地の底を這うようなしわがれた声がした。本能的に肌が粟立つ。それが常磐の声なのだと隆嗣が理解するまで、しばしの間が必要だった。姿はおろか、声にすら、今や凛として可憐な稚児の面影は一筋もない。
 常磐は振り返らず、里の者たちに向かって、 嘲笑(あざわら) うように続けた。
「心を読んだと思ったな」
「……っ」
「……殺してやると思っておるな」
 たとえサトリでなくとも明らかに感じられる殺気に、淡々と常磐は相対した。その声に、隆嗣はふと違和感を覚える。……なにか、ほっと安堵の息をつくような、この場にそぐわぬものを感じたのだ。
「おのれ化け物!」
 正面の家郎が錆びた刀を抜くのを見て、隆嗣は戦慄した。
 わかったのだ。常磐は理性を失っているわけではない。自ら「サトリ」として里の人間に狩られることで、ここに 捕らわれていた(、、、、、、、) はずの隆嗣を庇おうとしている。
「常磐!」
 思わず叫んだ。
「常磐、やめよ!」
「愚かな人間どもよ」
 隆嗣の声をかき消すように常磐は重ねた。
「獣を殺し、鳥を殺し、魚を殺して食らうそなたらが、なぜ人を食ろうたと言って (われ) を責める?」
「黙れ、化け物!」
「まこと、愚かなことよ」
 常磐ははっきりと嘲笑した。
「はるかな昔から、我等は山深く潜んで暮らしてきた。わざわざ山を出てまで人間を食らおうとはつゆとも思わぬ。その山を侵し、我等を害し、殺してきたのは何者か」
「黙れ! おまえは大納言様の御子息を食ろうたであろうが!」
「ああ、食った」
 常磐の嘲笑はもはや冷笑に近かった。色めき立つ里人を相手に、怒りすら滲む声で言い放った。
「そなたら、吾の (くび) を取ったら、それを持って都に行き、父大納言殿に申し伝えよ。色慾に溺れ、そなたの子を慰みものにし、死を願うまでに追い詰めた真の魔は寺中にこそあり、とな」
「な……」
 隆嗣は息を呑んだ。そのことばが、隆嗣に向けられた遺言だと気付いたからだ。常磐は、僧都を断じるように見せかけて、隆嗣に伝えたのだ。――わたくしは、望んで人間を食ろうたわけではございませぬ……。
「ぬかせ、化け物!」
「やめろ!」
 とうとう、最初の一太刀が常磐に浴びせられた。常磐は、その剛毛以外に身を守る術を持たなかった。本来人を傷つける妖怪ではないのだ。体毛に阻まれて、錆刀ではなかなか傷を付けられなかった皮膚も、やがて里人が寄ってたかって (くわ) やら (すき) やら (なた) やらを振りかざすようになると違った。地を揺るがすような悲鳴が山に轟く。地に根が生えたように動けなくなっていた隆嗣は、その悲鳴でようやく我を取り戻した。
「常磐っ」
 体のあちこちから血を流し、たたずむ巨体に駆け寄る。
「君様!」
「隆嗣様っ」
「早くあの化け物をお斬りください!」
 口々に里の人間たちが言う。常磐は、全身から血を流しながら、ただ静かにこちらを見ている。その黄色く輝く目の奥に、隆嗣ははっきりと「常磐」を見た。
「常磐」
 手の触れそうな距離から、隆嗣は静かに呼んだ。
「……許せ」
 ――愚かな人間の一人である、自分を。
 そなたを助けられぬ、無力な自分を。
 そなたを手にかけようとする、愚かな自分を。
 そして、そなたの手にかかりたいと願う、身勝手な自分を……。
 サトリであればこそ、常磐は隆嗣の望みを 聞いた(、、、) はずだ。
 刀を抜き、突きに構える。地を蹴り、常磐に向かって突進した。ずぶりと肉に刃が沈む感覚があり、天をつんざく断末魔が響いた。同時に、自身の背から胸へ、常磐の鋭い歯が突き通るのがわかった。
「君様っ!」
「隆嗣君っ」
「隆嗣様!」
 里人が口々に名を呼ぶ声が急速に遠くなっていく。意識はもういくらも保たぬだろう。朦朧とする中、隆嗣は強い毛に覆われた、常磐の体に手を這わせた。
「常磐……常磐……」
――片翼を寄せあい、空を飛ぶ鳥のように……。
   つないだ手を枝に持つ、双樹のように……。
「た……嗣様」
 絶え入る最期の吐息の中、常磐がかすかにささやいた。涙に濡れて、笑む声だと思った。
 やがて、隆嗣の手が、奇妙な手にたどり着く。巨体に見合わぬ小さなちいさな、枯れ木のような手に指を絡め、隆嗣は安堵の息をついた。
 後の世の約束に、たどり着いた気がした。


* * *


 今は昔、山にさとりといふ (もの) () ありけり。人の心に思ふところ、たちどころに (さと) り、まどはして、これを食らふ。ゆゑにさとりといへり。
  一日(いちじつ) 、稚児の 逢坂(あふさか) を越えたるに、かのさとり、道ふたぎて「 (まし) ぞ、もののけに () ひぬと思ふる」といふに、稚児おどろきて「やや」といふうちに、やがてこれを食らひにけり。
 おほやけに追捕使をして、これを (ちゅう) さしむるに、その体、白き鳥に変じて西のかたに飛び去りぬ。これを見てのちの人、かのさとりは倭建命の 変化(へんげ) なりといひあへり。さらば、かの稚児も、ゆゑありてぞ食らはれにけるか。



* * *


ユエさまのINDULGEでキリ番をゲットし、リクエストして書いていただいた作品です。
滅多にないこの機会に、ユエさまの持ち味を一番堪能させていただけるテーマはなんだろうと散々思い悩んだ挙句、「異類婚姻譚」という微妙なものをリクエストしてしまったのですが、期待をはるかに上回る完成度の高い作品に仕上げていただき、今はただもうひたすら感動しております。脱帽です。ありがとうございます〜〜〜(T▽T)。
この流れるような美しい文章、細部にまで神経の行き届いた言葉の選び方から何から、何度読み返してもうっとりしてしまいます。
常磐君の美童ぶりには惚れ惚れしましたが、それにもまして、本体に戻ったときの健気さ、可愛らしさがツボでございました。
そして何より、本体に戻った常磐君を見ても少しも想いが変わらなかった隆嗣君の愛の深さに涙しました。こういう容姿に惑わされない思いの深さって、BLでは意外と見られないもので、それだからこそ余計に感動したのかもしれませんが……。
最終ページの背景に飛び去っていく鳥の写真を選んだのは、ふたりの魂が肉体から解き放たれて、青い空の果てに悠々と舞っていく姿を想像したからです。哀しいけれど、美しく心温まるラストシーンは特に深く、心に染みました。
ユエさま、本当に素晴らしい作品をありがとうございました!!
(なお、余談ですが、冒頭の歌と最後の今昔物語集風の文章は、ユエさまが自作されたものだそうです。すごい……)


ユエ様のサイトはこちら↓


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