白鳥奇譚

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 幽谷の朝は、早くて遅い。鳥の声は朝まだきの頃から聞こえはじめるも、日が見えるのは昼ちかくになってから。それすらも、この谷では霧に隔てられ、かそけき光となる。
 目覚めてから三日、ようやく庵の表に出た隆嗣が見たものは、視界を閉ざす霧の帳とわずかな (こずえ) の先ばかりであった。その向こうから聞こえてくる谷川のせせらぎですら、すぐそことは思えぬほどに、とぎれとぎれである。白鳥の地は、 (いにしえ) からの神の領域。人ならぬものが棲まう地はかくも霧深いものかと隆嗣は嘆息した。
(それにしても、かくも毎日とはめずらしかろうに)
 山で迷ってすでに三日。未だ里からの迎えはない。仮にも郡領の子息が行方知れずとなれば、山狩りの一つもあってしかるべきだが、この三日、周囲には人はおろか常磐のほかには獣の気配すらなかった。
(まさか、見捨てられてはおるまいが……)
 だが、たとえ長兄と隔てなく育てられ、長兄以上に里の人々と親しんでいたとしても、隆嗣は白鳥の嫡男ではない。父が自分にサトリ退治を申しつけたのも、隆嗣の方がより破魔の力に秀で、狐狸や小鬼の類を幾度か退治したことがある過去を買ってのことと理解しているが、その一方で、自分が 嗣子(しし) ならばこの命を申しつけられたかどうかと疑う気持ちがないわけでもない。
 ――だが、
(考えるな)
 たとえそうであったとしても、だれも恨んではならぬと、隆嗣はきつく己を戒めた。
 家族からも、里人たちからも、自分は十分すぎるほどに慈しまれて育った。感謝こそすれ、恨むなどもってのほかだ。
 わかっているのに、それを疑ってしまう。それは、自分のなかにある、人知を超えた破魔の力――はるか 神代(かみよ) 、倭健命と契りを交わした娘が授けられたという魔を払う力が、他人と自分との間に見えない壁を作るからだ。里の者たちには持ち得ぬ力。血を分けた父や兄ですら、持ち得なかった力――。
 だが、それを「壁」にしてしまうのは己の心の弱さそのものだ。わかっていても、その孤独は拭いきれぬ。人でありながら人ではない、隠れた異形であることの恐怖……。
 鬱々とした気分を変えようと、庵の前の (かめ) に汲み置かれていた清水で顔を洗いながら、ふと隆嗣は気付いた。
人ならぬもの(、、、、、、) 、か……」
(……あるいはこの霧も、人ならぬものの仕業やもしれぬ)
「なればこそ、迎えもそうそうたどり着けぬか……」
 そう呟いた時だった。背後で湿った地を踏むかすかな音がした。すばやく紅絹で顔を拭い、太刀の柄に手をかける。
 近付いてくる足音の方へ目を凝らしていると、やがて、白い帳の向こうに朱の色がひらめいた。
 胡蝶のごとき綾の袖。玉の露を振り零し、白い足が土を踏む。それはかの 霓裳羽衣(げいしょううい) の舞もかくやという典雅なさまであった。
「……常磐か」
「隆嗣様」
 霧の向こうから現れた稚児は、我が方へ抜刀の構えをとった隆嗣の姿に、大きな瞳をいっそう見開いて立ち止まった。だが、次の瞬間には我に返り、足早に歩み寄ってくる。
「お立ちになどなられて……おみ足は痛みませぬか」
 隆嗣に腕を貸して縁の下の台に座らせ、うやうやしく左の足を手にとった。足の腫れが引きはじめていることを見て取ると、安堵の息をつく。
「快くなっていらっしゃるようでございますね」
「ああ、そなたが看てくれたおかげだ」
 心のままに礼を言うと、常磐はわずかに目を瞠り、
「いえ、そのような……」
 うつむいて、困ったように呟いた。その、秀でたうなじがほんのりと色づく奥ゆかしさ、みずみずしさ――。
「まこと、 芙蓉(ふよう) のようだな……」
 感嘆のため息とともに、我知らずつぶやきが漏れる。
  西王母(せいおうぼ) の仙桃のようにすべらかな頬に、心惹かれるままに手を触れた。
 常磐は戸惑うように顎を引いただけで、あらがう素振りは見せない。それをよいことに、繊細な輪郭を指でたどる。そうしているうち、自分の胸内で常磐に対する愛おしさがいや増し、恋情と呼ぶべきものに凝っていくのを、隆嗣はごく自然なことと受け止めた。
 この三日、この高貴の稚児がどれほど自分に尽くしてくれたか……それを思えば、自分が常磐に心惹かれるのも当然と思えた。 蓬莱(ほうらい) の神仙に勝るとも劣らぬであろう麗容、心映えは気高く、それでいて他人の身の回りの世話を厭わぬやさしさを持ち、この山中のあばら屋で可能な限りに心配りを行き届かせることができる。譲り渡された床、朝に夕に用意される乏しくも心づくしの食事、空いた時間には熱心に経を () しているが、隆嗣が何かしてほしいと思うと、不思議とそれに気付いてくれる。これほど自分に心を砕いてくれる相手を、隆嗣は死に別れた乳母以外に知らない。
 はっきりと自覚した途端いてもたってもいられなくなり、こみ上げるいとしさのままに唇を寄せる。
 常磐は大きな目を瞠り、あらがって身をよじった。切れ上がった眦に意志をこめて請う。
「ご容赦くださりませ」
「できぬ。許せ」
 細い身体を抱きしめ、口を吸った。花の唇からは、しびれるように甘い香りがした。一度触れてしまえば、後は突き崩されるように堪えが利かなくなった。
 常磐ははじめ身体を強張らせていたが、何度もついばみ、上下の花びらを交互にすするうち、腕の中の身体からは次第に力が抜けていった。隙間から舌を滑り込ませ、より深く舌をすり合わせる。甘露のしずくが顎を伝う。
「んう……」
 恍惚とも苦悩ともつかぬ表情で、常磐は息をついた。怨ずるような、それでいて艶のしたたるような目。その視線に胸を衝かれ、再び唇を合わせた。
「常磐」
 尖った (おとがい) に指を添え、仰のかせる。今度は常磐もあらがわなかった。
 雲のようにけぶる額の際を撫で、白い貝のような耳殻を指で犯す。その間も二人の唇は深く交わっている。
 常磐は寄せた眉に凄絶な艶を乗せて口付(くちづけ)を受け入れていたが、やがてそれが解かれると、なじるような素振りで隆嗣の胸に手をついた。
 隆嗣は間違えなかった。
 掴んだ手首は、日々田畑を耕す里の女達には比べるべくもない細さだった。もつれ合うようにして庵に入る。 草履(ぞうり) を脱ぐのももどかしく寄り添って板間に座った。秀でた額に、長く反った睫毛に、桃李の頬に……何度もくりかえす口付の間に 水干(すいかん) の緒を解き、袴の紐を解いた。
 青い果実のような香りと共にさらされた、 単衣(ひとえ) の奥の肌は、白鳥の峰の初雪のごとき白さときよらかさ……だが、女のそれとはまったく違う常磐の肌には、男の愛撫を誘うなにかがあった。
 やわらかな腹に手をあてる。手のひらの下、その身体はたしかに息づいているのに、なぜかあやういほどに (うつつ) を感じさせず、隆嗣はそのいのちを探るように愛撫を深めた。
 常磐は従順に受け容れた。男の手がまだ若い茎へ伸び、その奥をさぐり、やがて熱心な愛撫で菊のつぼみをほころばせる頃には、しなやかな腕を隆嗣の首に回して 迦陵頻伽(かりょうびんが) (さえず) りを聞かせた。
  羽化登仙(うかとうせん) の交わりの果て、 随喜(ずいき) の涙をこぼしたその身体からは、絶えず (たえ) なる香りが立ち上っていた。
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