白鳥奇譚
四
翌朝
、身を切る空気のなか、水を汲みに下りた谷川のほとりで、常磐はふと手を止めた。
ゆらめく水面にやさしい面が映っている。本来の自分にはない滑らかな肌に、どこもかしこも頼りないほど華奢な体つき。幾度見ても己の姿とは思えぬ。けれど、この姿を「うつくしい」と
言う
――そう、胸の
裡
で繰り返し感嘆する隆嗣の気持ちは、サトリの常磐にも理解できる。どころか、己の本来の姿を醜く恐ろしいと言う人間どもの気持ちさえ、わからぬではない。
(だが……)
だが、今の自身の姿を見るにつけ、この容姿と「常磐」の名を、ただのサトリであった己に与えた人間を思い出さずにいられぬことは、常磐にとって苦痛の種でもあった。
(度を過ぎれば、うつくしさもまた異形なのだ……)
うつくしさゆえに人ならぬ扱いを受ける、その壮絶さを、常磐は、ことば通り、
身を以て
知っている。
今の己の容姿と名の本来の持ち主は、本物の天暦寺智慧僧都付きの稚児、常磐であった。藤大納言の庶子でありながら、その複雑な出生ゆえ、幼くして寺に預けられた常磐は、その麗容を以て僧都の寵愛を一身に受けた。公卿家の出であれば、しかるべき年齢に達した時点で寺中の住職にも
補
せられるべきところ、僧都の執心は並々ならず、俗世ならば元服を迎える年齢を超えてもなお、常磐は僧形を許されなかった。父大納言の常磐への興味はとうに失われ、ただ老いた僧都の慰みものとして生きるだけの日々――常磐はやがて死を望んで山中に踏み込み、そうしてサトリに出会ったのだ。
「死にたいと考えておるな」
サトリがその心中を読むと、常磐は凛然とした光を湛える
眸
から、
滂沱
の涙を流して乞うた。
「化け物よ、聞くがよい。おまえの言う通り、わたしは死にたい。今すぐ死んでしまいたい。しかし、仏の教えを思えば自ら死ぬこともできぬ。おまえにやれるものはこの身ひとつしかないが、どうか、わたしに死を与えてくれまいか」
悲痛な訴えは、ことばよりも心の
声
に如実に表れていた。哀れな、絶美の稚児のたどる末路――。
「聞こう」と答えたのは、
憐憫
の情からだった。数百年生きてきて、はじめて人間を食らった。
得たものは、しばらくの空腹を満たすことと、この容姿と名、稚児「常磐」の記憶。代わりに追っ手から逃れる日々が始まった。
寵童を失った僧都は、それこそ狂わんばかりの立腹であるらしい。もとより居らぬも同然の子一人、死んでかまわぬ様子であった父大納言をたき付け、
唆
し、大々的に追捕使をかけさせた。おそらく隆嗣もまた、そのような追っ手の一人なのだろう。
(その破魔の末裔をわたしが助けるのだからな……)
運命はわからぬものである。
常磐はゆれる水面をじっと見つめた。毛むくじゃらの元の姿を思えば、心もとないほどあからさまに表情を乗せる面には、今は困惑と憂いの色が強く滲んでいる。
あの後、一度目を覚ましてから、隆嗣はもう二日眠り続けている。痛めた体を雨に打たれ、もともと弱っていたこともあるが、静養のためにと眠りの薬草を合わせて煎じた薬が、いささか効き過ぎたようだった。
今なら殺せる、殺せると思いながら、自分の敵の身の回りの世話を焼き、いのちを
存
えさせるその矛盾、その葛藤――今も昏々と眠り続ける男の顔が脳裏を過ぎり、常磐は小さく首を振った。
水面に映る自分の顔は、どこか泣きそうに見えた。手で水を掻き混ぜてその影を消し、水瓶を抱えて立ち上がる。
隆嗣などは、この白鳥の山谷を、まるでこの世ならぬ異界のように考えているようだが、もともと深山幽谷ではるかな時を暮らしてきた常磐にとっては、この程度の森はむしろ明るすぎるほどだ。ましてや、常磐の化身は、月華を浴びればたちどころに元の姿に戻る。そうとあっては、どれほど深くめくらましの霧を張り巡らしたところで不安は拭えなかった。いっそ誰も助けに来ることなどない絶境であれば、隆嗣と二人、彼の傷が癒えるまで過ごすことも無理ではなかろうに……。
鬱々と思いつつ瓶を運び、草庵まで戻ったときだった。
(常磐……常磐、どこにいる……?)
弱々しくもはっきりとした声を、常磐は
聞いた
。
「隆嗣様?」
慌てて庵の引き戸を開けてみると、ようやく意識が戻ったらしい、隆嗣は床から頭だけを上げてこちらを見ていた。
この二日、眠り通しでさすがに少し痩けただろうか。常磐の姿を見つけると、隆嗣はほっとした表情になる。その一瞬の表情の変化に、常磐は目を奪われた。こころを読むまでもない。まるで母を慕う子のように、疑いのない信頼。かつて、これほどまっすぐに自分を慕ってくれた相手がいただろうか。
かりそめの姿に惑わされているのだとわかっていながら、それでもうれしいと思う。
「よくお目覚めでございます」
ほほ笑んで、常磐は隆嗣の傍らに向かった。
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