白鳥奇譚

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 ――そなたが居てくれてよかった。
 その言葉を聞いた瞬間、胸が震えた。
 雲の切れ目から差し込んだ月の光が、深い霧の帳を越えて、ぼんやりと窓から差し入ってきた。おぼろな月明かりに浮かぶ男の顔を、常磐は憂いを帯びた目で見下ろしている。
 かたわらに眠る男は、まっすぐな気性の持ち主のようだった。悪い男ではないのだろう。……それゆえに、常磐にとっては面倒な相手でもあるけれど。
 注意深く月光を避け、庵の奥へと 膝行(いざ) って、常磐は膝を抱えた。男の顔を見つめる白皙には、さまざまな表情が浮かんでは消える。
(この人間は敵。自分を害する者……)
 本当は助けるべきではなかった相手だ。この山で迷い人が出たと知った時も、近付くつもりはまったくなかった。けれど、「死にたくない」と……あれほど強烈な「生」の希求を、常磐は今まで 聞いた(、、、) ことがない。
 結果、自ら危険に身を晒し、我が身を狩る者を助けたのだから、愚かとしか言いようがない。けれど本当は、山中で助けた時でさえ、常磐は彼をここに置き去りにして逃げるつもりだったのだ。もし、どうしても必要ならば、……殺してでも。
 望んでこの身に生まれたわけではないが、常磐は、自分の存在が人間にとっていかに疎ましいものか、痛いほど知っている。 知りたくなくても知らされた(、、、、、、、、、、、、、) 。この目の前の男とて、守ってやると言ったその心の内で思っている。サトリを成敗し、その首、主上に捧げるのだ、と――。
 若い身体に (みなぎ) る決意は、否応なしに常磐の中に流れ込んでくる。その揺るぎなく固い意志は青臭く、いっそ滑稽なほどだ。
 月明りに浮かぶ男の面を見つめ、常磐は眦に冷たい光を浮かべた。
 なぜ、自分が追われる身になったのか、その理由はわかっている。常磐にとってはわけあってのことだったが、彼らは物の怪であるという、それだけで、常磐の言い分など構うことなく刃を向けてくる。
 理不尽に自分を害そうとする人間を、慕わしいと思えるはずもなかった。長い年月をかけ、心の底にどろりと溜まった怒りと哀しみが、今また流れ込むこの男の負の感情にかき立てられる。
 けれど……、
 ――そなたが居てくれてよかった。
(……あんなことを言うから……)
 本当の自分が何者か、知らないままつぶやかれた言葉だとわかっている。この男の目には、自分はかよわく麗しい稚児としか映っていない。わかっているけれど……、そのたった一言が、常磐の胸にはひどく甘美に響いた。
 人間が、自分達を取って食らう「妖怪のサトリ」を憎むと同じに、他者の意思を読むサトリは、自分達をひどく傷つける人間を本来天敵視している。
 どんな生き物であれ、食らわれる瞬間には、自分を食らう相手を怨み、憎むものだが、人間の (のこ) す怨念は他の生き物の比ではない。それどころか、日頃からサトリという妖怪に憎しみを募らせ、ことあるごとに殺意を向ける。その思考そのもので、どれほどサトリを傷つけているかも自覚しない。サトリが人間を食らうのは、人間が魚や獣を狩るのと同じだ。人間のように快楽のために生き物を殺すことも、争うことも好まぬというのに……。
 例に違わず、常磐も人間が苦手だった。できる限り山奥に身を潜め、ひたすらに人間を避けてきた。物心ついた時からつい先日まで、人間の姿を実際に目にしたことすらなかったほどだ。
 そんな常磐の胸に、男の言葉はひどくやさしく響いた。
 ――そなたが居てくれてよかった。
 妖怪のサトリは殺すつもりなのに、と……憤る気持ちがないわけではない。ないけれど……。
 ふと、さきほど触れた男のぬくもりが指先によみがえり、常磐は手を握りこんだ。人間に触れるのはこれがほぼ初めてだ。あたたかく、すべらかな肌だった。山の獣たちを覆う毛皮がほとんどなく、つるりとしていて、見ようによってはおかしな形である。だが、その肌は不思議と手に馴染み、心地よいものだった。
 もう一度触れてみたい衝動に駆られたが、男は今、月明りの中にいる。その光が自らの身にもたらす影響を考えると、できなかった。
(……隆嗣といったか……)
 白鳥の名を名乗るということは、この里の豪族の子息なのだろう。白鳥といえば、神代、 倭 健 命(やまとたけるのみこと) が白鳥になって舞い降りたという伝承の地であり、その力を受け継ぐという首長一族は、一地方豪族でありながら、京でも破魔の血で名高い。特に害した覚えのない彼が、サトリにこれほど強い敵意を抱くのも、おそらくその力を買った朝廷からサトリ退治を命じられてのことだろう。破魔の力を振るう者となれば、常磐にとっては、まさに自らを狩る天敵である。
(一刻も早く、ここを去らなければ)
 我ながら理不尽だと思いながらも、もはや隆嗣を殺せないだろう自分を、常磐は自覚していた。そうでなければ、最初から助けてなどいない。ならば、彼をここに放り出して逃げるのが得策だ。
(わかっている……)
 けれど、それすら躊躇われるのは、自分がこの地に張った結界のためだった。
 山に満たしためくらましの霧は、かならずしも鉄壁というわけではないが、それでもそう容易には里人を近付けまい。隆嗣が一人で山を下りるのはしばらく無理であろうし、そうであれば、今殺さずにいたところで動けぬ隆嗣は早晩飢え死ぬに違いなかった。
(知ったことか)
 突き放す言葉を胸の内で呟いてみる。……言葉にしてみたことで、それが自分の本心ではないと自覚し、激しい苛立ちを覚えた。
 自らいのちの危険を冒してまでこの男を助けて……そこまでの価値がいったい彼のどこにあるというのだろう。
 ままならない己自身に問うように、寝返りをうった隆嗣が寝ぼけた声で名を呼ぶ。
「……常磐……」
 ハッと我に返り、常磐は「はい」と (いら) えを返した。

 

 明け方、小さなくしゃみで目が覚めた。
 眠りの底では気にも留めていなかった湿気と寒さに気付く。左足の膝から下が、まるで焼けた鉄を流したように熱く重い。獣のように呻いて、隆嗣は視線をめぐらした。
 外はすでに白んできているらしい。光を含んで乳白色にほの光る霧が、遣り戸の隙間からさらさらと流れ込んできている。
 無意識に衾を引き上げた時、再び小さなくしゃみが聞こえた。庵の中に自分以外の存在を知り、首をめぐらすと、隅の暗がりに丸まって眠る稚児の姿が目に入った。
 常磐は、衾はおろか、 (むしろ) 一枚敷いていなかった。ほっそりとした両の手足を縮め、獣が自分の身体を抱くようにして眠っている。自分が彼の寝床を奪ってしまったためだということはすぐに知れた。
「……常磐」
 眠りの中にいる稚児を驚かさぬよう、小さく呼ぶ。
「常磐」
 目を開けた稚児は、とろりと眠たげな視線をこちらに向け、上体を起こした。
「いかがなさいましたか」
 起き抜けの掠れた声が問う。
「こちらへ」
 呼ぶと、おぼつかない足取りで近寄ってき、隆嗣が衾の端を持ち上げてみせると、子供のようなしぐさで首をかしげた。
「入れ。何も掛けんでは寒かろう」
 隆嗣が言うと、「いえ……」と身を引く。
「よいのだ。おれも寒い」
「あ……」
 腕を掴み、強引に引き入れると、今度は抗わずに身を寄せた。
 ぬくもりを抱き締めて、ふっと安堵する。
「寝床を取ってすまぬな」
 目を閉じ、小さな頭を胸に抱えて言うと、常磐はかすかに「いいえ」と答えた。そして、おずおずと 身動(みじろ) ぎし、隆嗣の腕の中で小さな息を漏らす。
 傷ついた獣のように身を寄せ合い、二人は今一時の眠りに落ちた。
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