白鳥奇譚

戻る | 進む | 目次

 あたたかなものが頬に触れた。やわらかく、ほのかに好い薫りがする。
(あたたかい……)
 それを意識した瞬間、にわかに身を覆う寒さを覚えた。
「……っ」
 はっと見開いた隆嗣の目に飛び込んできたのは、たおやかな (なり) の稚児だった。森の闇にも鮮やかな白い肌、とろりと艶のある絹糸のような垂髪に覆われた面は (すこぶ) るうつくしい。濡れ濡れとした黒い瞳が、憂わしげにこちらを覗き込んでいる。
(これは……)
 一瞬、状況も忘れて、隆嗣はその稚児の顔に見入った。次いで、己はとうとう浄土に渡ってしまったのかとも考えた。それほどまでに目の前の稚児の容貌は現実離れしてうつくしかった。
「もし……しっかりなさってくださいませ」
 きりりと冷えた春風のような声が耳をくすぐる。声に甘さを含みつつも芯の通った口ぶりは、この山道でなおいっそうの違和感を放った。
 目を見開いたまま反応を失った隆嗣の頬を、稚児は両手で暖めるように包み込んだ。はっとするほどあたたかく、どきりとするほどほっそりとした指である。そのぬくもりが、次第に隆嗣の思考を引き戻した。
「ここは……」
「ああ、お気づきでございますね」
 ようやくの反応に、稚児は表情を明るくした。その鮮やかさに、隆嗣はまたもや目を奪われる。このうつくしさ、とても人知の及ぶ範囲のものとは思われない。
「ここは……浄土か……」
「いいえ。白鳥の峰でございます」
 きっぱりとした稚児の答えに、隆嗣は大きく息を飲んだ。途端に冷えた胸がキリリと痛んで、激しく咳き込む。だが、その痛み、その苦しさこそが、生きているということを実感させた。
「……ならば、おれは生きているのか」
「たしかに生きておいでです」
 思いのほかしっかりとした隆嗣の反応に安堵したのか、稚児は切れ長の瞳にかすかな笑みを刷いた。そうすると、うつくしい面にいっそうの艶が乗る。
「まことにようございました」
「ああ……世話をかけた。礼を言う」
「御身がご丈夫でいらっしゃるのです。おみ足を痛められてご意識もなく、雨にも長く打たれておいでのご様子ですのに……」
 確かに身体は冷え切っていた。それだけでなく、絶えず背中を悪寒が伝う。震える唇で隆嗣がそう言うと、稚児は柳眉を寄せた。
「それは、たいそう冷えていらっしゃるでしょう。近くにわたくしの庵がございます。あばら屋ではございますが、よろしければそちらへご案内いたしましょう」
「ああ、ありがたい」
 凍える体を叱咤して立ち上がると、左の足がひどく痛んだ。よろけそうになった拍子、稚児がとっさに腋を支えてくれる。
 間近にある稚児の身体から芳しい香の薫りが立ち上り、隆嗣の鼻腔をくすぐった。痛みと寒さに朦朧とする隆嗣の意識をふうわりと包み、なぐさめるような甘い薫りだ。嗅いだ瞬間、不思議と足の痛みが薄れ、体が軽く、あたたかくなった気がした。
「好い薫りだな」
 思わず稚児の髪に鼻を埋めるようにして言うと、うろたえるように揺れた首筋がふわりと染まる。匂いやかな風情に隆嗣は目を細めた。
「こちらへ」
 ぬかるんだ道を、稚児が導くままにしばらく進むと、やがてせんせんと水音が聞こえ始めた。
(こんなところに沢などあっただろうか)
 己の知る白鳥の山を思い浮かべつつ、首をひねる。
 さらに進むと、なおいっそう霧が濃くなった。自分の足下すらはっきりとは見えず、かろうじて稚児の顔がわかる程度である。
(この霧深さで、たどり着けるだろうか……)
 不安が脳裏をよぎったと同時、答えるように稚児が口を開いた。
 「まもなくでございます。もうしばらくご辛抱くださりませ」
 はたして稚児の言う通り、杉の巨木を一つ越えると、急峻な谷川の脇、大きく張り出した (いわお) の下に、隠れるように小さな庵がしつらえられていた。
 (これは……)
 濃い霧の中でぼんやりと見ても、なお明らかなあばら屋であった。風雪に晒されて黒ずんだ板戸と板壁。 苔生(こけむ) した屋根には所々秋草が伸びている。
(また、風情のある……)
 考えたことが顔に出たのか、稚児はうつむき加減に顔をそむけ、 () () を引き開けた。
「墨染めの、仮の住まいでございますゆえ、まことにむさくるしい限りでございますが……」
「いや、ありがたい。邪魔をする」
 踏み込んだ庵の中も、小さな土間に狭い板間だけの、至って簡素なものだった。だが、外から見た時のような、今にも崩れそうな危うさはない。板間の一番奥まったところには、小さな白木の壇が置かれ、木彫りの仏像が据えられていた。その前に供えられた花と供物も、読経台に開かれた経典も、総じて古いなりに整えられていて、主の心映えの好もしさがうかがえる。
「どうぞこちらを」
 差し出された布で身体をぬぐい、人心地つくと、ふと疑問がわいた。
「そなた、一人でここに住んでおるのか」
 優にやさしく典雅な所作、高貴な物言いに、あきらかに高価とわかる綾の (きぬ) 。田舎の女よりもよほどたおやかな風情の稚児は、このような深山のあばら屋にはいかにも不似合いだった。
(あるいは、この山に () まう 人ならぬもの(、、、、、、) か……)
 この白鳥の峰は、 神代(かみよ) からの神の領域。かような稚児は、その使いとでも思った方がよほど納得がいく。
(よもや、物の怪の類ではあるまいが)
 そもそもこの稚児と物の怪というものが結びつかない。たとえば、かのサトリは身の丈六尺、全身をむくつけき毛に覆われた、見るも醜悪な形であるという。そのような物の怪とは疑うべくもない。
 隆嗣の思考が治まる頃合いで、稚児は「いいえ」と首を振った。隆嗣の左足に薬草を当て、ていねいに布で巻きながら答える。
「わたくしは、京は 天暦寺(てんりゃくじ) 聖釈院(しょうじゃくいん) 智慧僧都(ちけいそうず) にお仕えいたしております、 常磐(ときわ) と申します。智慧さまがこの白鳥の大滝不動堂にてお勤めに励んでおられます間、こちらの庵でお待ちするよう申しつけられました」
「なるほど、そうか」
 やはり京の者かと隆嗣は納得した。
 それにしても、天暦寺といえば、 延暦寺(えんりゃくじ) 仁和寺(にんなじ) に勝るとも劣らぬ、都の大寺院である。都に上ったことのない隆嗣でも、その名は耳に覚えがあった。親王が門主に立たれたこともあるという、皇族にもゆかりの深い名刹である。もっとも、この稚児の容貌所作にはふさわしいと言えようが……。
「おれは白鳥隆嗣という」
 常磐が湧かしてくれた湯に布を浸し、それでもって身体をあたためながら隆嗣は口を開いた。
「智慧殿とおっしゃったか……そなたの師は知らなんだのであろうが、この山は今たいそう物騒なのだ。そなたも師と共に、早々に山を下りた方がよい」
「それは……、わけをおききしてもようございましょうか」
「そなた、昨今、都の 逢坂(おうさか) を騒がせたサトリという物の怪を知っておるか」
「いいえ。初めて耳にいたします」
 不安げに眉をひそめる常磐の手をとり、同じようにあたためた布で拭いてやりながら、隆嗣は言葉を継いだ。
「身の丈は熊ほどもある、毛むくじゃらの妖怪だそうだ。人の心をたちどころに読み、惑わせて喰らうという。先日、 (とうの) 大納言(だいなごん) 様のご子息が犠牲になられ、 追捕使(ついぶし) がかけられた。そやつがこの白鳥の山に逃げ込んだのだ」
「まことでございますか……」
 血の気の失せた顔で呟き、常磐は唇を震わせた。
「ですが……、お師さまを残して、わたくし一人、山を下ることはできませぬ」
「僧都殿のおられる不動堂まで迎えに行くことはできぬのか」
「わたくしはこちらでお待ちするよう申し付けられたにすぎませぬゆえ、不動堂の詳しい場所も存じませぬ……」
「そうか……」
 なるほど、修験者の道は、獣も通らぬ峻険の道であると聞く。深く里山に親しんだ隆嗣にしても、大滝の場所までは知っているが、痛めた足ではとても通えぬ道である。そのうえ、 (くだん) の「不動堂」については未だかつて聞いたこともなかった。たとえ知っていたとしても、このたおやかな稚児の足では無事たどり着けるかも定かではない。
 常磐は愁いに沈んだ様子で目を伏せている。こうしている今にも危険な目に遭っているやもしれぬ師匠を慮っているのだろうか。意志の強さが顕れた瞳が伏せられると、常磐の表情は途端に頼りなげに映った。頬に影を落とす睫毛が小さく揺れるのを見てしまうと胸が震える。
 落ち着かない気分になり、隆嗣はことさら明るく言った。
「なに、心配せずともよい。おれもこの足ではすぐには山を下りられぬ。明日には里の者が迎えに来るはずだ。もし誰かその不動堂の場所を知っておれば、迎えをやろう。もし知らなくても、ここには何ぞ書き置いて、そなたは先に山を下りればよい。ここにいる限りはおれがそなたを守ろう」
「……はい。ありがたく存じます」
 目を伏せた花の (かんばせ) に、しなやかな髪がひとすじかかる。それを掻き上げてやると、黒い瞳がこちらを見上げてきた。
 硬質な黒曜のきらめきの奥に、艶めいた闇の淵がじわりと滲む。吸い込まれるように見つめれば、ひたと目が離せなくなる。胸の騒ぐのが一層ひどくなり、隆嗣はうろたえた。どうしたことだろう――己の心の動きに惑わされそうだ。
 張りつめた空気を破ったのは、遠く響く、獣の声だった。
 びくりと肩を震わせた常磐の表情は、さきほどまでの神秘に満ちたものではなく、幼さの残る、あどけないそれだ。
 互いに詰めていた息を解く。
「山犬だ。案ずるな」
 頭を撫でてやると、ほっとした顔でこちらを見上げた。隆嗣は (まなじり) に笑みを浮かべて頷いて見せた。
「そうとなれば、今宵はもう休もう。すまぬが床の用意を頼めるか」
 身体が乾いてきたせいか、暖まった左足はひどく痛みだしていた。
 常磐はすぐに床を延べ、隆嗣が横になるのを助けてくれた。畳などは望むべくもなく、薄い粗末な床敷きに 襤褸(ぼろ) のような (ふすま) を被るのみだったが、それでも雨に濡れずに休めるだけありがたい。衾にもぐって目を閉じると、ほのかに甘い香りがした。常磐の残り香だろう。嗅ぐと、やはり心がやすらぐ。左足の痛みもやわらいだ気がした。
 衣擦れの音がして、ふと近く、香が薫る。
 目蓋は重く、もう開けることすらかなわなかったが、すぐそばに人の気配が感じられた。
 「常磐、 () るか」
「はい」
「……そなたが居てくれてよかった」
 守ってやると言っておきながら……そう思いながらも、素直な気持ちを口にする。
「……どうぞ、おやすみくださりませ」
 あたたかな細い指が額を撫で、隆嗣をやすらかな眠りの淵に誘った。

戻る | 進む | 目次
Copyright (c) 2008 --yue by INDULGE-- All rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-