白鳥奇譚

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 ――あしびきの 山立ちそびゆ
    真白らの 峰立ちそびゆ
    白鳥の 下り立つ里辺
    肌清き 宇奈比処女(うなひをとめ)
    今夜(こぞ) こそやすく やすく肌触れ
    よゝゝゝゝ


* * *


 道を失った。
 鬱蒼と繁った大杉の森の中、道とも呼べぬほど細く傾いた道の上で、男が一人、途方に暮れていた。仕立の良い 狩衣(かりぎぬ) をまとい、腰に太刀を刷いているところから、どうやらそれなりの身分の者らしいとわかる。彼は被っていた笠の緒を解き、雨を含んだ前髪をかき上げた。
 時刻は (さる) の刻を幾分か過ぎた頃――まだ日が暮れるには早い時分だ。けれども、辺りには肌に密度を感じるほど濃い霧がたちこめ、闇の裳裾は次第に足を速めて近付いてきている。下界ではまだ盛夏の暑さを残していた 文月(しょしゅう) の風が、ここでは凍りつくような冷気に代わっていた。
 男はもう一度辺りを見回すと、大きく息をついて、道端の杉の巨木に身をあずけた。長く霧雨に晒された衣は濡れそぼち、もはや簑も笠も用をなさない有様だ。休まず地を踏んできた足は木の芯を通したようにこわばって、膝ばかりががくがくと崩れそうに揺れている。
  紅絹(もみ) で額の汗を拭い、残り僅かな手持ちの水を口に含むと、男は天を仰いで目を閉じた。
 (完全に迷ったな)
 男の名は 白鳥(しらとりの) 隆嗣(たかつぐ) という。この白鳥の地を治める豪族の次男だ。
 白鳥の下の御子息は、才気俊英、武技に秀で、学問に明るく、人柄好もしく、都の 貴人(あてびと) もかくやという美丈夫であられる――常日頃、そう里の者たちにもてはやされている隆嗣であったが、この状況にはさすがに焦燥を覚えずにいられなかった。
 今朝、供の者とこの森に踏み入った時には、天はよく晴れていたはずだ。だが、しばらくするとにわかに空がかき曇り、間をおかずして篠突く雨が降り出した。山道のぬかるみに馬の足を取られ、不覚にも落馬、愛馬はそのまま走り去ってしまった。足を痛めた隆嗣を残し、供の者が助けを呼びにいったのは昼過ぎのことだ。しかし、いつまで待っても供は戻ってこない。幸い足の怪我はたいしたことはなかったので、せめて大きな道まで歩こうと思ったのが間違いだった。もはや道どころか、ここがどこなのかさえ定かでない。
(おれとしたことが……皆に見られたら、さぞかし笑われような)
 代々郡領を襲継する豪族の子ながら、隆嗣は幼い頃から里の者たちと深く交わって育った。里の人々は隆嗣の家族、里は隆嗣の庭も同然で、四方を囲む峻険な山々でさえ親しみ深い場所であるというのに。
 だが、どれほど馴染み深い場所であっても、山は時に人のいのちをも奪うところだということを、隆嗣はよくわかっている。獣に襲われたの、崖から落ちたの、時には神隠しに遭っただの……そうして山でいのちを落としていった里人を、隆嗣も実際に知っているからだ。
(日暮れまでに道に出られねば危うい)
 再び腫れて熱と痛みを持ち出した左足を見つめ、隆嗣は険しく眉をひそめた。
 歩かねばならぬとわかっているが、この足で歩いたところで、どれほどの距離進めるか……。だが、たとえ供が助けを連れて戻ってきても、この霧ではそう簡単に自分を見つけられるとも思えなかった。この辺りの山には、熊も山犬も多い。ましてや今は、それよりもずっと恐ろしい物の怪がこの山に潜んでいるというのに――。
「……」
「死」というものを、隆嗣は初めてはっきりと意識した。この深い霧の (とばり) の向こうに、しかも、手を伸ばせばすぐの距離に、それはひっそりと息を潜めてこちらをうかがっている。その視線が肌を舐めていくようで、ぞっと冷たいものが背筋を伝った。
(……死にはせぬ)
 自らを鼓舞するように、大音声に発する。
 「こんなところで、おれは死なぬ! 絶対に死なぬぞ!」
 この田舎の山里に下された主上の勅命――その命を果たさんがために、隆嗣はこの山に分け入った。隆嗣を信じて「任せる」と言ってくれた父のためにも、里で待っている多くの人々のためにも、こんなところで野垂れ死ぬわけにはいかぬ。
(生きてサトリを倒し、その首、主上に献上するのだ!)
 そのために今、自分がなすべきことは生きることだ。まずは生きて、里に戻らねばならぬ。
 だが、隆嗣の意志とはうらはらに、左足の腫れはますますひどくなる。しまいには全身が熱を発したようになり、立っていることすらままならなくなった。
「……、…………」
 とうとう (おお) きな杉に寄りかかるようにして、隆嗣の身体は地に崩れた。
(こんな、ところで……)
 そう思ったのを最後、隆嗣の意識は、我か彼かも定かならぬ境へと落ちていった。
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