子どもたちの部屋で服を替え、出てきたときの御田の顔は見ものだった。
作り物のヒゲをつけて、ほとんど目だけしか覗いていないのに、むっつりと、最悪に不機嫌そうな顔をしているのがよくわかる。
真っ赤な衣装をつけた巨大なサンタさんは、豪華な食事が並べられたディナーの席でも終始機嫌が悪かったが、御田の仏頂面には慣れっこの双子たちは気にした素振りもなく、夕食後も恐ろしいサンタさんにまとわりついてはケーキを切ってもらったり、パズルで一緒に遊んでもらったりしていた。
三角や四角のパズルを子どもたちに渡してやるたび、ふわふわのファーで縁取られた赤い袖口がずれて、覗いた手首に銀色の輝きが散る。
どうやら御田は、永江がサンタの衣装と一緒に、布袋の奥につっこんでおいた包みに気づいてくれたらしい。太い手首に巻かれた時計こそ、永江が御田に贈った本当のクリスマスプレゼントだった。
アルピナのヘリテイジ・クロノグラフは、永江にとってはかなり張り込んだ買い物だったが、御田が所有するいくつものラグジュアリーウォッチと比べられてしまえば、価格的にはだいぶ劣る。
だが、ずっしりとした重厚感のあるデザインや、シンプルでありながら機能性に優れ、しかも頑丈な造りがどこか御田を思わせるのが気に入って、悩んだ末に永江はこれを選んだ。
自分が本当にいいと思ったものを、御田に身につけておいてほしいと考えたことは内緒だ。見栄が大事なホストクラブでの仕事中は使えないかもしれないが、普段使いにでもしてくれればいい。
真尋が御田の広い背中によじ登ろうとして怒られている。金色の袋に入ったシャンメリーの瓶をキッチンから探し出してきて、「パパあけて」と真純が甘えてきた。リビングの床にはプレゼントが散らばり、テーブルの上には四人では食べきれなかったホールケーキの残りがまだ乗ったままだ。
ケーキの隣には、これもまた御田が持ってきてくれた大輪のバラの花束を、花瓶に移して飾った。生クリームの甘い匂いとバラの芳香が、子どもたちの声とともに、明るい部屋の中を満たしているような気がする。
幸せだと思った。
こんな幸せな日には、別れた妻のことを思い出す。今どうしているのかと、どうしても気になってしまう。
彼女に対して、いまさら未練があるわけではない。まして、永江は妻に捨てられてしまった立場だ。
しかし自分がいまこの上なく幸せであるだけに、彼女に対しては言い知れぬ後ろめたさと、そして御田のことを好きだった彼女への、抜け駆けしてしまったような罪悪感が少しあった。
……彼女もいま、幸せであればいい。そして母親としてほんの少しでも真尋と真純のことを気にかけていてくれるのなら、それ以上永江が彼女に対して望むものは、なにもなかった。
* * *
――夜の9時を回ると、それまでさんざんはしゃいでいた子どもたちが、力尽きたように急にうつらうつらし始めた。もこもこしたサンタの衣装が暖かくて気持ちいいらしく、眠たそうな目で、真純がすぐ横に座っていた御田の体に寄りかかってしまう。
あぐらをかいた永江に抱っこされながら、パズルに熱中していたはずの真尋の頭も、スイッチが切れたように急にがくんと後ろに倒れた。頭の重みに引きずられたように、体全体で永江にもたれかかってくる。顔を覗きこむと、もうすやすやと眠ってしまっていた。毎度のことながら、子どもたちのこの切り替えのはっきりしたことには驚かされる。
「エネルギー切れだ。寝床に連れて行こう」
そっと息子の体を抱え上げながら声をひそめて言うと、頷いて御田も真純の体を横抱きにして持ち上げた。リビングに隣り合わせた子ども部屋に運び込み、布団を敷いて子どもたちを寝かせてやっていると、まだかろうじて目を開けていた真純が、御田の胸元の布地をくいくいと引っ張ってねだる。
「みっちゃとパパも、いっしょにねようよ」
「俺たちはまだ眠くないんだ。――おやすみ。また明日な」
不満そうに唇を尖らせる真純の頭をぽんぽんと軽く叩いて、御田が立ち上がる。永江もふたりに「おやすみ」と囁いて、部屋を出た。
リビングに戻ったとたん、御田はぐったりとソファに座り込んでしまった。眠くないと真純には言っていたが、疲れていないわけではないらしい。当たり前だ。ここしばらくの激務の上、御田はろくに休みもせずにさっきまでのクリスマスパーティーに参加してくれていたのだ。
サンタの衣装を着たまま、足を投げ出してぴくりともしないでいる御田を、永江は上から覗き込んだ。「大丈夫か?」と声をかけると、白いヒゲの下からくぐもった声がかすかに「……大丈夫だ」と答える。しかしどう見ても大丈夫な様子ではない。
ソファの隅に置いてあったブランケットを御田の上に広げながら、もしこのまま寝てしまうようならサンタ姿の寝顔をこっそり写メで撮ってしまおうかなどと考えていると、禍々しい気配を察知したかのように、しばらくしてから御田がだるそうに体を起こした。
ブランケットを断り、いつもの何倍も鈍い動作で立ち上がって、ゆっくりと歩き出す。
「御田? どこに行くんだ」
「子どもたちの部屋だ。着替えないと……」
そういえば、御田が本来着ていた服はあの部屋に置いてあるのだった。
写メは無理かと残念に思いながらがっしりした背中を眺めていると、子ども部屋の扉を静かに開いた御田が暗い部屋の中を覗き込んでしばらく沈黙し、中には入らないまま、またスッと戸を閉めてしまった。
「どうかしたか?」
そのままなにか考え込むように動かずにいるので、永江は持っていたブランケットをソファの上に放り出して、御田に近づいた。
振り返った御田は、表情はわかりにくいものの、なんだか困っているみたいに見えた。
「なにかあったのか?」
「……真純が、俺の服を抱きしめて眠っている」
なに!? と永江は目を剥いて閉ざされた子ども部屋の扉を見た。意味が分からない。
「どういうことだ。さっき布団を敷いたときに、おまえの服を真純に渡してたのか?」
「なんでそんなことをする必要があるんだ。部屋の隅に寄せておいたはずなんだが、眠る前に見つけてしまったらしい。がっちり抱え込んでいるから、起こさずに取れそうにない」
サンタ衣装で困り果てている御田を見上げ、永江もついと眉を寄せる。
真純が御田のことを大好きで、非常に懐いているのはよく知っている。しかし添い寝してくれない御田の代わりに、御田の残り香が漂うスーツを抱きしめて眠ってしまうほどだったとは。
まさかとは思うが、そのうち本気で好きになってしまったらどうしよう。実の娘が恋敵になるなんて、シャレにならない。
小さな不安が芽生えたが、結局永江はそれを笑いで紛らわせてしまうことにした。
「……まあいいじゃないか、そのままで着替えなくても。よく似合ってるんだし」
「似合ってない」
「いや、本当に似合ってるって。このヒゲなんかぴったりだ」
そう言って、永江は御田の耳にゴム紐でひっかけられたヒゲに手を伸ばした。びょんと引っ張ってから手を外すと、反動でヒゲは勢いよく御田の顔へと跳ね返る。当たった瞬間目をつぶり、それから御田は眉間に深い皺を刻んで永江を見た。
「おまえな……」
大して痛くはなかったろうが、しっかり怒っている。ふっと笑って、永江はもう一度ヒゲを引っ張った。今度は下のほうにずらす。そして御田に振り払われる前に、無防備にさらされた口許に永江は軽く唇をくっつけた。かけていた眼鏡が御田の顔に当たって、ほんの少し鼻梁が痛む。
驚いて目を見張る御田に笑いかけて、また手を離す。さっきよりも強く引っ張っられていたゴム紐は、勢いを増して戻っていった。ばちんといい音がして、「うっ」と呻いた御田がわずかにのけぞる。だがすぐ目をギラリと光らせると、被っていた帽子とヒゲをむしり取り、永江の眼鏡も素早く外して、今度は自分からぶつけるように唇を押しつけてきた。
強引なキスに永江は一瞬息を呑み、だがすぐに体の力を抜いて、薄く唇を開いた。開いた隙間からわずかに舌を差し出すと、飢えた獣のように貪欲に御田の舌がそれを絡め取り、貪ってくる。息継ぎもままならないような激しいキスに頭の芯がじんじんと熱くなり、永江は反射的に御田の背に腕を回して、その体を抱きしめた。
御田も永江の頭を両手で抱え込み、なおも執拗なキスを仕掛けてくる。押しつけられて、背中が背後の扉に当たった。ぐちゃぐちゃに髪をかき乱され、御田の腕にはめられた時計が何度も永江の頬をこする。激しい貪り合いの中で、御田が身にまとった赤い色がちらちらと何度も永江の視界をかすめた。
いったいどれだけの間、そんなことをしていたのかわからない。
いきなり背にしていた扉が向こう側からガンガンと叩かれ、永江と御田は文字通り飛び上がった。
慌てて体を離し、濡れた唇をごしごしと擦る。御田から奪い返した眼鏡を掛け直し、どうにか体裁を整えてそっと扉を開けると、そこには予想通り、寝ぼけ眼の真尋と真純が立っていた。
「パパ、みっちゃ、しっこー!」
緊張感のない真尋の第一声に、永江は思い切り脱力した。
夕食のとき、今日だけはとジュースを飲み放題にしてやったので、喜んで飲みすぎてしまったのだろう。「しっこしっこ」と連呼しながら、その場でじたじた足踏みをする。
とにかくトイレに連れて行かなければと歩き出して、永江はこちらをじっと見上げている真純の視線に気がついた。
「どうした、真純。おまえもしっこか?」
「パパたち、いまなにしてたの?」
唇に指をあてて可愛らしく聞いてきた娘に、永江も御田も何も言うことできず沈黙した。さっきのキスのときのことを急いで思い出す。あのとき、扉はちゃんとしまっていただろうか。大声で変なことを言ったりはしなかったか。
大丈夫、だと思う。たぶん。……このまま白を切りさえすれば。
真尋が「はやくー、もれちゃうよぅ」とわめいたのを幸い、聞かれた質問には答えず、「ほら、トイレに行こう、トイレっ」と娘の背をぐいぐい押す。
真尋に用を足させ、ついでに真純にもトイレを使わせながら、永江は頭を抱えたい気分だった。
なんということだ。御田にキスをしかけたのは永江のほうだが、まさか主導権を奪われた上、夢中になりすぎて子どもたちのことを一瞬忘れてしまうとは。
そもそも、子どもたちが寝ているすぐ近くであんなことを始めてしまったこと自体がありえない。これまでもあまり父親として優等生とは言えなかった永江だが、今度のこれは最悪だったのではないか……?
どっぷり落ち込みながらリビングに戻ると、真純が部屋を離れた隙に自分の服を取り戻した御田がサンタの衣装を脱ぎ落とし、元のパリッとした姿に戻っていた。
シャツとパンツを身につけ、ジャケットとタイは右手に抱えている。一応もらってくれるのか、サンタの衣装を入れた布袋も一緒に持っていた。
「へ、部屋に戻るのか?」
急に動きが鈍くなった気がする舌に苛立ちながら尋ねると、御田はもう落ち着きを取り戻したのか、ちらっとこちらを見て頷いた。
「ああ、邪魔したな」
「ええー、みっちゃかえっちゃうのー?」
「なんでー!? いっしょにねようよぅ」
毎回恒例の文句を子どもたちが言い出したが、永江はむしろホッとしていた。有り得べからざることが起こり、永江は今ちょっとだけ動揺してしまっている。自分のペースを取り戻せるまで、正直御田には近くにいてほしくなかった。
子どもたちと一緒に、玄関まで御田を見送りに出る。ゆっくりと靴ひもを結んでいる御田がじれったい。さっさと出て行ってくれればいいものを、なにを手間取っているのかと思う。
靴ひもを結び終え、荷物を抱え直して御田がようやく立ち上がると、待ちかねていた永江は小さく御田に手を振った。
「今日は色々とありがとうな。おやすみ」
「ああ」
永江の言葉に頷いたくせに、御田はこちらに背を向けたまま、なぜだか扉に手を伸ばそうとしない。
永江と一緒に御田を見送りに出ていた双子が、「みっちゃ?」と不思議そうに首をひねった。
御田が上半身をねじるようにして、半分だけこちらを振り向く。じっと顔を見つめられ、永江は居心地悪く身じろいだ。
「……なんだよ」
御田の左手首が持ち上がる。そして静かに、腕の時計に軽く触れるような口づけを落とした。その仕草の意味がわからない子どもたちはきょとんとし、永江は思わず息を呑んで御田の行動を見守る。
「――永江。俺はもう、止まることはできない」
囁くように言った低い声には、固い決意が秘められていた。寄越された鋭い眼差しに射抜かれたように永江が動けないでいるうちに、御田は扉を開けて部屋を出ていってしまう。
子どもたちが傍らで、「みっちゃ、おやすみ」とぶんぶん手を振っている。体を冷やしてしまわないうちに、早くふたりをもう一度寝かしつけてやらないといけないのに、永江は身じろぎひとつできない。
御田の唇が時計の文字盤に触れるのを見た瞬間、なぜだか背筋に震えが走った。――もしかして自分は失敗してしまったのだろうか。眠っていた獣のしっぽを踏んで、うっかり起こしてしまったりしたのだろうか?
ぞくぞくと、また背筋が震える。その戦慄が恐れによるものか、期待によるものかわからないまま、永江はしばらく茫然とその場に立ち尽くしていた。
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