恋は語らず -Chapter.4-

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 あと十分ほどで予鈴が鳴るというタイミングで元気よく中に飛び込んできたのは、安永行成(やすなが・ゆきなり)だった。周囲の生徒たちよりひと回り以上小柄だが、発散する底抜けに明るい空気が妙に人目を引きつける。
 目についた級友と片っ端から挨拶を交わし、早瀬にもぶんぶんと手を振って「おはよう」の言葉を投げてきてから、弾むような足取りで大塚に近づいていって「どしたの、そのマスク」と尋ね、またすぐに自分の席に座って、日課の後輩への手紙をいそいそとしたため出す。朝から目まぐるしいことこの上ない。
 その行成に少し遅れて、土岐雅義(とき・まさよし)もゆったりとした足取りで中に入ってきた。今日はふたり一緒に登校してきたらしい。もともと家が近所で幼なじみのこの二人は、そういうことがよくある。
 真っ直ぐこちらに歩いてくると早瀬の顔を見下ろし、わずかに片眉を上げた。その手がふいに目許近くに伸びてきて、早瀬は反射的にぴくりと肩を揺らしてしまう。
「寝不足か? クマができてるぞ」
「別に。気のせいだろ」
 とっさに首を後ろにそらして土岐の手から逃れながら、早瀬はぞんざいに言った。引き戻した手でコートを脱ぎ、早瀬の席のすぐ後ろにある自席に荷物を下ろしながら、土岐がわずかに呆れた口調になる。
「毎日顔を合わせているのに、気のせいのわけがあるか」
「……ちょっと夜更かししただけだよ。スポーツニュースをはしごして見てたりしたし」
 気がかりなことがあってよく眠れなかったと、土岐にだけは言いたくなくて、そんな言い訳をする。実際昨夜はすぐ寝つけそうになかったから、ベッドに入る前にどうでもいいようなことをして時間をつぶしてもいた。
 だからそれほど興味があってテレビを見ていたわけではなかったのだが、いつの間にかまた近くにきていた大塚が早瀬の言葉を聞き、嬉しそうに声を張り上げた。
「それってあれだろ。昨日の日本代表の試合の結果をチェックしたんだろ。俺も見たぞ!」
「ああ、サッカーの試合な。すっきりしない結末だったよな」
 がらりと空気が変わったことに内心ホッとしつつ相槌を打つと、大塚もさかんに頷いて詰め寄ってきた。
「試合終了間際にとられたPK、あれはどーみたって主審の目が節穴だよな。土岐も見たか? どう思った?」
「まあたしかに、微妙な判定ではあったな」
「微妙どころじゃねえよ! あれさえなかったら勝ってた試合だったのに。そもそもあっちのディフェンスが先にファールをしかけてきたのが」
 ワールドカップ予選での微妙な判定について、大塚が熱弁をふるい出す。早瀬にとっても納得のいかない判定だったので、自然と話が盛り上がった。土岐も相変わらずの客観的で冷静な意見を聞かせ、ああだこうだと議論を交わしていく中で、しきりと振り回されている大塚の右手に握られたものに、早瀬はふと目を引かれた。なにかの記録メディアが入っているらしいケースだ。目ざとい土岐は当然同じものに気づいていたらしく、会話が一段落したのを見計らったように尋ねた。
「ところで大塚。さっきから持っているそのディスクはなんだ」
「おう、そうだった。忘れてた」
 はたと気がつくなり、大塚は透明なケースに入ったディスクを早瀬の目の前につきつけてきた。
「前に見逃したって言ってたやつ。うちのHDDに録画データがまだ残っていたから、DVDに落としてきてやったぞ。感謝しろ」
「――って、ひょっとして『笑焔(わらえん)』の出た番組か?」
 ケースの表面に汚い字で殴り書きされた番組名を見て、早瀬は覚えず相好を崩した。
「笑焔」は若手お笑いコンビの芸名だ。コンビそろってやたらと低く滑舌のいい特徴的な声や、独特の間合いのコントが受けて、このごろ少しずつ知名度を上げており、早瀬もテレビの番組でたまたま見かけて以来好きになった。
 先日CSの番組にこの二人がゲスト出演していたことを後から知って、見逃したことを悔しがっていたのを、大塚は覚えていてくれたらしい。
「これでも見て、機嫌直せよ、な?」
 ふたたび差し出されたディスクを受け取ろうとしたら、横からすっと伸びてきた手に先にさらわれてしまった。奪ったケースの文字をしげしげと眺めつつ、土岐が傍らに立つ大塚に「早瀬は今日、機嫌が悪いのか?」と尋ねる。
「あー、朝からなんかムスッとしててさあ。放課後遊ぼうぜって誘っても、なんかノリが悪いし」
「んなことねえよ。放課後もつきあうって言っただろ!」
 ディスクを返せと催促するが、なにに興味を引かれたのか、土岐はケースを裏返したり開けたりと熱心に眺めて、なかなか手放そうとしない。「これで『わらえん』と読むのか?」と大塚に尋ね、そうだと頷かれて、「湯桶(ゆとう)読みか」などと独りごつ。
「それで結局、このコンビは笑えるのか、笑えないのか」
「おっさんみたいな返しすんなよ。おまえほんっと、この手のことに関心がないんだな」
「そういうわけでもないが」
 もう一度ケースの表面を眺めてから、ようやく早瀬にディスクを手渡してくる。眼鏡越しに、色素の薄い眼と眼が合った。
「おまえはこのコンビが好きなのか?」
「……まあ一応」
「一応どころか、大好きだろ! 前にお笑い新人王をどのコンビが獲るかって話したとき、おまえ断然この二人を推してたじゃねえか」
 その言葉は事実であっただけに反論することができず、早瀬は気まずく口を噤んだ。
 いや、別に気まずく感じることはないのだ。好きなお笑い芸人がいるということは、悪いことでもなんでもない。ただ、なんとなく土岐にはこの手の話を聞かれたくなかっただけで。
 くだらない見栄かもしれないが、バラエティ番組など見そうもない土岐に、自分の低俗さを知られたくなかった。いや、別にバラエティや芸人が低俗だと思っているわけでもないのだが……。
 頭の中で、そんな風にごちゃごちゃ考えていると、ふいに、教室の出入口のほうからガタガタっという音が聞こえた。
 敷居にけつまずきそうになりながら、転がり込むように中に入ってきたのは、大塚と同じバスケ部でキャプテンを務めている高梨だ。彼もまた顔の半ばまでを覆うマスクを着けていたが、普段は線のように細い目が、今はなぜか裂けそうなほどに見開かれている。
 顎が大きく下がり、マスクの下の口が限界まで開かれたのが分かった。
「大変だ、大塚っ。春日井が倒れた!!」
「――うそっ!?」
 教室内にいて高梨の言葉を聞いたほぼ全員が、いっせいに目を剥いた。
 すぐ近くでかすれた悲鳴が上がった。瞬く間に顔色をなくした行成が椅子から立ち上がりかけてバランスを崩し、机ごと倒れ込みそうになる。
 大きく傾いた机の上から、文字で溢れた便箋が、頼りないような緩やかさで床へと舞い落ちた。

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