恋は語らず -Chapter.4-

1

 その朝、早瀬武士(はやせ・たけし)はいつもより少し早く起き出した。
 こころなしか体が重かった。昨夜、ベッドに入ったあとにどうでもいいような考え事をしていたら眼が冴えてしまい、熟睡できなかったせいだろう。しかしもう一度寝直す気にもなれず、立ち上がってタイマーが鳴る前に目覚ましを止め、カーテンをのろのろと開ける。
 窓の外は、いまの早瀬の心を写し取ったかのような、冴えない曇天だった。雨が降るほどではないが、くすんだ色の分厚い雲が空一面に立ち込めていて、太陽が顔を出しそうな気配はない。おまけに口笛のような鋭い音を立てて、ときおり寒風が吹き抜け、そのたびにがたがたと荒っぽく窓が揺さぶられる。
 いかにも寒そうなその様子に一段と憂鬱さが増すのを感じながら、一度開けたカーテンを閉め、早瀬は寝巻代わりにしているジャージを脱いで制服に着替えた。カバンとコートを手に階下に降りていくと、まだ息子は夢の中にいるものと思い込んでいたらしい母親が台所から姿を見せ、驚いた顔になった。
「なに、その格好。今日は早く出かけるの? 聞いてないわよ」
 焦ったように聞かれたので、そういうわけではないと首を横に振ったのだが、すでに母はこちらを見ていなかった。「まったくもう。昨日のうちに言っておいてくれたらいいのに」とぶつぶつ言いながら、台所に引き返していく。
 まあいいかと思って荷物を玄関前の廊下に置き、洗面をすませてから、ダイニングの椅子に腰を下ろした。
 建築家であり、現場の都合に合わせて朝が早くなりがちな父親は、今朝ももう仕事に出かけた後のようだった。つけっぱなしのテレビで、特に面白くもない朝の情報番組を一人ぼんやりと眺めていると、母親ができ上がったものから朝食を机に並べていく。
「お味噌汁はいま温めてるから、ちょっと待ってて。あとお弁当も。こんなに早く起きてくると思ってなかったから予定が狂ったわ」
 小言を続けながらも母親は慌ただしくシステムキッチンの中を動き回り、早瀬が朝食を食べ終えたころには、きっちりと弁当を用意してくれる。それを受け取ってカバンに入れ、いつもならなんとなく最後まで見てしまう番組を途中で切り上げて、早瀬は早々に家を出た。
 急いで歩いたつもりはなかったが、早めに家を出たせいで、常なら時間が合わない準急に乗ることができた。そのぶん学校にはいつもよりだいぶ早く着き、まだひと気が少なく、閑散とした昇降口でいいかげんに両手を消毒してから、三階の教室に上がる。
 教室の中も、まだひと気は少なかった。見慣れた端然とした姿も、まだそこにはいない。ほとんど無意識の動作でそのことを確認しつつ、自分の席に荷物とコートを置くと、早瀬は一直線に窓際にあるヒーターのもとへと向かった。両手をヒーターの天板に張りつけると、ほどよく温まった金属からじわじわと熱が伝わってくる。
 しばらくそうしているうちに、徐々に登校してくる生徒の数が増えてきた。真冬の寒さに追い立てられるように、同じブレザー姿の学生たちが、次々と校舎の中に飛び込んでくる。それを窓越しに見るともなしに眺めていると、背後からどたどたどたと騒がしい足音が聞こえてきて、次の瞬間、早瀬の体は割り込んできた巨体によって跳ね飛ばされていた。
「さみぃーーーー!!」
 早瀬からヒーターの前の特等席を奪った男が、くぐもった声を出しながら、温風の吹き出し口に身をすり寄せる。
「おおお、ぬくー! 極楽極楽」
「……のやろ、大塚! なにが極楽だ。いきなりなにしやがるっ!!」
つんのめりながらも、なんとか体勢を整えた早瀬が怒鳴ると、
「だって寒かったんだもーん」
ヒーターに密着したまま、口調だけ可愛らしく大塚が言い訳した。が、なにしろ所属するバスケ部ではセンターのポジションを任されている、ゴリラのような大男だ。まったく可愛らしく見えない。おまけにその顔は、今日は半分以上が隠されていた。早瀬はついと眉根を寄せた。
「おい、そのマスクはなんなんだ?」
 大塚の目の下から顎まで、薄い空色の、特大サイズのマスクにすっぽりと覆われていた。息苦しそうにふがふがと鼻を鳴らしながら、かろうじて覗いている目と眉だけで、大塚が憂鬱そうな表情をつくる。
「ほかの生徒に移さないようにって、昨日校長からきついお達しがあったんだよ。うちの部員全員、これを必ず着用しろだとよ。別に全員が倒れたわけでもないのに、バスケ部自体がバイ菌みたいに扱われて、不本意この上ねーっつの」
「ああ、インフルエンザの話か」
 思い当たるところがあった。早瀬はヒーターの前を諦め、コートを脱ぎながらひとつ頷く。
 先週末の話だ。星辰高校バスケ部の面々は、隣県の高校まで遠征し、練習試合を行った。
 その試合自体は圧勝だったらしく、気分よく凱旋してきたまではよかったのだが、その後まもなく、相手校の生徒数人がインフルエンザを発症したという連絡が飛び込んできた。しかもそのうちの一人は、その高校のバスケ部の控えメンバーだったというのだ。
 試合中、相手側のベンチにやたらと具合が悪そうで、ぐったりしている生徒がいたことを、星辰高校のバスケ部メンバーも覚えていた。
 ひょっとして、自分たちは練習試合の土産に、とんでもないものを持ち帰ってきてしまったのではないか。
 恐縮しきった声で相手校の教諭が電話連絡してきたとき、誰もがそう思ったし、その懸念が杞憂でないことが判明したのはすぐだった。
 連絡をもらった翌日、試合に帯同していた下級生がひとり倒れ、ふたり倒れ、そのうち二三年生のメンバー数名もインフルエンザに罹患していることが判明し、星辰高校の校内はちょっとしたパニック状態に陥った。バスケ部メンバーからウィルスをもらったと思しき生徒も新たに現れ、特に感染者が多く出た一年は、現在学年閉鎖も検討されている状況だ。
 バスケ部に所属しておらず、今のところ健康体である早瀬たち一般生徒も、このごろは毎朝登校するたび昇降口に用意された消毒薬で手指を滅菌するよう教師たちから厳しく指示されて、面倒くさいことこの上ない。
 マスクの紐を邪魔そうに引っ張りながら、大塚が憎々しげに教室前方、扉近くの壁を睨みつけた。そこには『うがい・手洗いを忘れずに!』と、先日、担任教師が手ずから書いて貼りつけたポスターがある。
「たくっ、どんなに気をつけてたって、インフルエンザなんてかかるときにはかかるのによー。バスケ部だけ放課後部活動禁止とか言われるし、横暴もいいとこだぜ。――なあ早瀬、おまえ今日の放課後あいてるか?」
「なんだよいきなり」
「部活ができなくてヒマだから、高梨たちと久々にゲーセンでも行くかって話してんだ。おまえもよかったらつきあえよ」
 学校側の意図としては、部活動ができない間は速やかに家に帰って大人しくしていろということなのだろうが、行動を封じられ、平素以上に体力を持て余した大塚たちはそんなことはまったくお構いなしのようだ。
 今日の放課後といわれて、早瀬はまた眉をしかめる。もやもやーとしたものが、腹の底から湧き上がってきた。
「なんだよ。また土岐やユキたちとなにか予定が入ってんのか?」
「――いや。いいぜ、つきあっても」
 どうせ今日は俺も暇だし。
 そう続けると「なんだ、美術部も今日は中止か」と、大塚がどことなく嬉しそうな様子を見せる。中止もなにもと、早瀬は肩をすくめた。
「バスケ部が活動停止なら今日は春日井も暇なはずだから、どうせ放課後はユキとべったりだろ。そんなのに近づきたくもねえし。……土岐も今日の放課後はいないし」
「いないって? あいつなんか用事でもあるのか」
「みたいだな。でも大したことじゃねえよ」
 そう、全然大したことではないのだ。
 土岐から今日の放課後の予定を聞いたときから、頭ではそう判断しているのに、なぜだか感情が従ってくれない。考えれば考えるほどもやもやしてしまって、そもそもこんなことを延々と考えてしまったり、もやもやしている自分自身にもムカついてきて、それで昨夜はあまりよく眠れなかった。知らず知らず、険悪な顔つきになっていたのかもしれない。大塚が首をひねる。
「なんか機嫌悪いのな。――お、そうだ!」
 なにか思い出したように手を打ち、どたどたと自分の席へと戻っていく。
 そうしている間にも、登校してきた生徒たちが続々と教室に入ってきた。

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