恋は語らず -Chapter.3-

16

 ――ジャー、ゴボボボボボ……。
 濁った音を立てながら、便器の奥の小さな穴に渦を巻いて水が吸い込まれていく。それを、二反田はうつろな目で眺めていた。
 完全に水が流れ去ってから、ようやくのろのろと動き出す。
 閉じこもっていたトイレの個室の鍵を開けようとしたが、指先がぶるぶる震えて上手く力が入らなかった。何度も失敗しながらなんとか鍵を開けることに成功すると、ゆっくり開いた扉の角が額にごつんと当たる。そのささやかな痛みが、二反田にわずかな正気を取り戻させた。
 くんと、鼻をひくつかせる。個室の中にも自分の体からも、独特の刺激臭が漂っている気がしていたたまれず、一目散に手洗い場へと駆け寄った。蛇口を全開にして、勢いよく流れ出した水に両手をひたす。
 しぶきが跳ね飛び、みるみるうちに上等のスーツの裾が濡れそぼって染みを作ったが、そんなことを気にする余裕などなかった。ただただ必死で手を洗い、感覚がマヒして水の冷たさも分からなくなってきたころ、やっと水の中から引き出す。びしょびしょになった己の手の平を見つめながら、茫然とつぶやいた。
「ぼくは、今いったいなにを…………」
 下半身のとある箇所がやけにすっきりしている。それと裏腹に、気分はどんより淀んでいた。掌にはまだ、生々しい感触が残っている。ありえないことが起こった。してはいけないことを、してしまった。
「うぁああああーーー!!!」
 絶望的な声を漏らして、二反田は今度は頭を蛇口の下に突っ込んだ。
 忘れろ! と必死で念じる。早く忘れろ、忘れてしまえ!! 早瀬が男に組み敷かれていた姿も、押し殺した喘ぎ声も、色っぽく寄せられた眉根も、そして、それらを思い出しながら、トイレの中で夢中になって自慰に耽ってしまった自分のことも!!
 じゃばじゃばと、流し台の外に溢れ出す勢いで水が流れていく。二反田の髪も顔も首筋までがずぶ濡れなのに、頭には血が上りきったまま、いっこうに冷める気配がない。
 そのまま修行僧のように水に打たれ続け、どれほど経ったころだろうか。ふいに後ろからポンと肩を叩かれた。呆れたような声が聞こえてくる。
「風邪をひくぞ」
 隣の流し台に人が立った気配に二反田はわずかに顔を上げ、そしてそこに見つけた顔に大きく目を見開いた。眼鏡越しの眼差しが一瞬こちらにちらりと向けられ、すぐに逸らされる。土岐は制服のポケットからハンカチを取り出すと、水で濡らして絞り、丁寧に皺を伸ばした。
 ひととおりの作業を終えると、こちらに向き直る。
 流しっぱなしの蛇口を締め、空いた片手をすっと伸ばすと、べったりとはりついた前髪の隙間から睨みつけている暗い眼差しに怯む様子もなく、二反田の胸ポケットから勝手にチーフを抜き取った。
 空中で振って折り畳まれたチーフを広げ、足許に水たまりができるくらいぼたぼたと上半身から滴を垂らしている二反田の胸元に、無造作にそれを押し付けてくる。
「拭いたらどうだ。せっかくのスーツが台無しだぞ」
「よけいなお世話だ!!」
 二反田はチーフをむしり取ると、苛立ちのまま投げつけた。重みのないチーフは、勢いに逆らうようにふんわりとトイレのタイルの上に落ちる。もっと勢いよく、べしりと叩きつけたかったのに上手くいかない。激しい苛立ちに駆られ、二反田はほとばしる激情のまま口を開いた。
「ぼ、ぼ、ぼ、僕は、おまえのことが大っ嫌いだ!」
 土岐がわずかに首を傾げた。自分が何を言っているのかよくわからないまま、二反田はまくしたてる。
「早瀬を侮辱して、けがしたっ。僕は、僕はお前のことが大嫌いだ!!」
 叫んだ瞬間、さらにどっと感情がこみあげてきて、二反田は大きく鼻をすすった。いじめられた子どものように、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら殺したいような思いで土岐を睨みつける。
 わずかな沈黙のあと、土岐の眼差しがふと和らいだ。苦笑にも似た表情が、いつも能面めいていた顔にうっすら浮かび上がる。
「俺はおまえのことを別に嫌ってはないが」
 落ちたチーフをつまみあげ、もう一度二反田の胸元に押しつけてきた。まだ滴り落ち続けている水が、瞬く間に薄いチーフを濃い色に変えていく。
「ただ、これだけは覚えておけ。あいつは、俺のものだ」
「あいつ?」
 誰のことだと聞こうとして、思い止まる。早瀬のことだ。この男は今、早瀬のことを話しているのだ。 
「そして、俺もあいつのものだ。わかったら約束どおり、今後あいつにちょっかいをかけるのは控えてもらおうか」
「約束……? なんのことだ」
「自分で言った言葉を思い出せ。早瀬が男と付き合っていたら、縁切りすると宣言していただろう」
 指摘されて二反田はさっと青褪めた。
 そういえば先日、そんなことを口に出して誓ったことを思い出す。万一早瀬が男と付き合っているという噂が事実であった場合は、縁を切ると。
 たしかにあの時は、そのつもりでいた。自分と肩を並べられる男だと信じたからこそ、二反田は早瀬に執着してきたのだ。そうでなくなった早瀬に価値などない、はずだ。だが、だけど……。
 黙り込んでしまった二反田を土岐はしばし眺めていたが、やがて無言で(きびす)を返した。支える手を失ったチーフが、またひらりと肩先から落ちていく。
 その動きの残像を視界の端に捉えながら、二反田はぐっと両拳を握りしめ、一度大きく息を吸った。
「待て!」
 大声で呼び止めると、土岐が足を止めて首から上だけをこちらに向ける。
 一瞬のうちに激しい葛藤を脳内で繰り広げ、そして二反田は決意した。骨がきしみそうなくらいに強く両拳を握りしめ、言葉を絞り出す。
「たしかに僕は誓いを立てた。……誇りにかけて約束は守る。今後二度と、僕のほうから早瀬に近づくことはしない」
 言いながら、放った言葉が己の胸を切り裂いていく。
 つい先日再会するまで、二年も早瀬と会わずに過ごしていたのに、なんでそんなことが可能だったのだろうと今は不思議にさえ思った。
 こんな約束をしてしまえば、これから二度と、それこそ死ぬまで早瀬に会えなくなるかもしれない。しかもその間早瀬は、目の前のこの男にずっと独占され続けるのだ。
 めらめらと燃え上がる激しい嫉妬に目がくらんだ。そして二反田はようやく理解した。いつからか自分の胸にすくっていた思いの正体を。
 小さく一度だけ頷いて、土岐が再び歩き出す。その背中が見えなくなるのと同時に、二反田はトイレの床の上にがっくりと膝をついた。頭を抱え込んでうずくまる。滴り落ちる水にまじって、熱い滴が一滴、頬を滑り落ちた。
「う、うう……」
 二度と会わないと誓ったことで、はじめて早瀬への恋心を自覚するなんて間抜けすぎる。
 いったいいつ、こんな感情が生まれていたのだろう。再会した時か、何度も早瀬のもとを訪ねている間か、それとも、初めて出会ったころからか。
 しかし、たとえ土岐との約束がなくても、こんな思いをたやすく認めるわけにはいかない。二反田には責任がある。日本のみならず、世界にも覇を唱える巨大企業を、いずれ引き継ぐ身としての責任が。男を本気で好きになることなんて、許されるわけがない。
 気づいた瞬間に失恋が決まってるだなんて、あんまりだ。そんなことなら、気付かないでいる方がよほどマシだった。
 床に落とされたチーフを拾い上げ、ぐしぐしとみっともなく流れて止まらないはなをかんだ。力の入らない足を叱咤して、よろよろと立ち上がる。
 流し台の上に固定された鏡を覗き込むと、濡れ鼠でうなだれている、情けない顔の男が映っていた。拳を振り上げ、二反田は鏡の中の男を打ち付けた。何度も何度も繰り返し打ち付け、やがて手が痛くなってきたころ、ようやく鏡を打つのをやめる。
 ――今は潔く諦めよう。
 鏡の中の顔に爪を立てながら、二反田は胸の中で呟いた。
 約束は守る。自分からは二度と、早瀬には会いにいかない。だが今後もし、何の作意もなく再び早瀬と再会するときが来たとしたら。
 そのときは、けっして諦めない。たとえ十年後、二十年後のことになろうとも、そのときこそ早瀬と自分の間にも運命があるのだと信じて、あの男の元から早瀬を奪い返してみせる。
 鏡の中の真っ赤な目と睨み合いながら、二反田は固く誓った。いつかきっとその運命が、自分と早瀬のもとを訪れることを信じて……。

* * *

 ――美術準備室の扉を開けると、早瀬は土岐が部屋を出たときとまったく同じ姿で、ソファの上に茫然と座り込んでいた。
 準備室に誘い込まれるなり強引に行為に雪崩れ込まれ、あげくに最中の姿を他人に覗き見されてしまったショックがまた抜けきれないでいるのだろう。脱がされた服を身に着けることさえしていない。扉を閉めて歩み寄ると、土岐は早瀬の前に片膝をついた。
 汗と体液に塗れた下腹に濡らしたハンカチを当てると、張りのある肌がひくりと震える。そのまま肌を清め始めると、されるがままになりながら、早瀬はゆっくりと顔の向きを変えて土岐を見下ろした。
「……土岐。俺はさっき、幻でも見てたのか?」
「具体的に、どんな幻だ」
 せっせと早瀬の体を拭きながら尋ねる。いつもは行為のあとのこういった後始末を恥ずかしがって嫌がる早瀬だが、先ほどの衝撃が強すぎたせいか今日は完全に気が逸れてしまっていて、自分が今なにをされているかよくわかっていないようだ。
「さっき、そこに二反田がいたような気がした……」
「ああ」
 ハンカチが汚れてくると裏返し、もう一度四角く折り畳んで、今度はふくらはぎのあたりを拭く。若々しい滑らかな肌はその下にしなやかな筋肉を秘めていて、そのたしかな手触りが土岐を楽しませる。
「たしかにいたな。幻でも錯覚でもないと思うぞ」
 ひく、と触れていた足が震えた。わななく声が聞いてくる。
「な、なんでっ。どうしてあいつが、ここにいたんだ!」
「お前の名前を使って、俺があいつを呼び出したからだ。高梨に繋ぎをつけてもらってな」
 手短に説明すると、早瀬は絶句してしまった。
 連絡を受けた二反田は、疑うこともなく嬉々としてここまでやってきた。今日の日付を指定したのは、放課後に職員会議があるため、少なくとも数時間は教師たちの目が校内に行き届かなくなるからだ。土岐には別に露出趣味はない。その必要性もない相手にまで、自分たちの情事を見せてやるつもりはなかった。
 今日は行成にも、あらかじめ部室に来ないようにと言ってある。またなにか面白いことが起こりそうだと思ったのか、行成は喜んで承諾してくれた。今ごろは春日井が練習をしている体育館にでもいるのだろうが、今日を境に二反田が現れなくなればさぞかし残念がることだろう。いずれ何らかのフォローをする必要が出てくるかもしれない。
「とりあえず、おまえの不能疑惑はこれで完全に晴れただろう。嬉しいか?」
「そんなわけがあるか! おまえいったいなに考えて……っ」
「なにって、お前が望んだんだろう。不能の誤解を解いて、あの男がここに二度と来ないようにすることを。もうここには来ないと、確かに口に出して言っていたぞ。よかったな」
 もっともいつまで約束が守られるか怪しいものだと思っていたが、そこまでは口に出さないでおく。
 あの男が早瀬に寄せる執着は尋常ではない。本人が気づいているかどうかは怪しいものだが、友情の範囲を明らかに越えている。
 そんな男に早瀬の一番無防備な姿を見せることは危険極まりなかったが、それでもあえてこんな馬鹿げた方法をとったのは、いくつかのリスクを冒してでも早瀬に思い知らせてやりたい気持ちがいつになく強まっていたからだ。自分たちが付き合っている、恋人同士なのだという事実を。
 早瀬が自分に特別な思いを抱いていることを疑ってはいない。だが、そのことを未だに認めたがらず、ともすれば目を逸らしたがる癖がいつまで経っても抜けないのが気に入らない。
 この関係に完全に馴染む前に、この関係を嫌悪する気持ちが上回り、いつかはこの腕の中から逃げ出そうとするのではないかと、土岐はひそかに懸念していた。
 もちろんそんなことを許すつもりはない。二反田に言ったとおり、早瀬はもう自分のものだ。そしてその執着は、日一日と強くなっている。今のうちにもっと拘束しておきたいと思う。早瀬の身も心も。
「早瀬」
「……」
「おい、早瀬」
 呼びかけた声は、聞こえない振りでかわされた。早瀬の顔にはありありと憤りが浮かんでいる。きっと今は土岐の顔を見るのも嫌なのだろう。
 ひととおり早瀬の体を拭き終わると、土岐はその場に立ち上がった。腰を屈ませていささか強引に早瀬の顎を取り、こちらに顔を向けさせる。
 まだ情事の余韻を残し、わずかに腫れぼったくなっている目許を親指の先で撫でながら尋ねた。
「早瀬、おまえにとって、ユキはどんな存在だ」
「は?」
 突然の質問に意表を突かれたようで、早瀬が目を瞬く。親指に長い睫毛が当たって、少しくすぐったい。
「どんな存在って……、友だちだろ。どっちかっていうと悪友だけど」
「なら大塚や高梨は」
「あいつらも友だちだろ。だからいったい何なんだよっ!」
「なら俺は?」
「……っ」
 聞いた瞬間、うっと早瀬が息を呑んだ。土岐がどんな答えを望んでいるのか分かったのだろう。目許が赤くなり、視線がうろうろとあらぬ方向をさまよい出す。
「と、と、とも……」
 性懲りもなくふざけた答えを吐き出そうとしている唇を、土岐は口付けでふさいでやった。思う存分甘い口腔内を蹂躙してから唇を離し、赤みを増した顔にもう一度同じ問いを繰り返す。
「俺は? お前にとってどんな存在だ」
「こ……、と、とも……、こ、こい」
 口ごもる言葉の中に、さっきまでなかった単語が混じり始める。だが、いつまで待っても早瀬は焦りの色を濃くするばかりで、はっきりしたことを言おうとしない。
 これまで女相手には百戦錬磨で鳴らしてきた男とは思えない純情ぶりは可愛いとも言えたが、それ以上に呆れて、土岐は軽いため息をついた。
「……お前はこれまで、自分の彼女を人に紹介するたびに、そんなに照れていたのか?」
「ち、違うけど、仕方ないだろ! これまでと違うんだからっ!!」
「なにが?」
「知るかっ。でもなんかが全然違うんだよ。そうでもなけりゃ、誰が男なんかと付き合うか!」
 ぐしゃぐしゃと自分の髪をかき乱しながらわめき立てる。どうやらどうしても土岐を恋人だと、口に出して認めることができないらしい。
 仕方ないと、土岐は今回は諦めることにした。
 早瀬が言えないのなら、自分が口に出して言うことにすればいい。繰り返し囁いて、早瀬の脳内に刷り込んでしまうのだ。「好きだ」という思いを。そして自分たちは男同士でも、確かに思い合う恋人同士なのだということを。
 早速その耳に唇を寄せたが、その前に赤い顔をした早瀬に睨みつけられた。
「……おまえ、まさか友だち呼ばわりしたことを根に持って、こんなやり方を思いつんたんじゃないだろうな」
 まさかもなにもその通りだったが、なにも言わないでいると、早瀬はますます睨みつける目の力を強くした。
「もう一度同じことをしたら殺すからな」
「しないさ。これ以上やると、寝た子を起こしそうだ。…まあ、もう手遅れかもしれないが」
 二反田のあの様子では、今後またひと波乱ふた波乱あるかもしれない。だが、次に二反田が早瀬の前に現れるころには、今以上に自分たちの間に他人が割り込む余地などなくなっているはずだ。少なくとも土岐は、必ずそうしてみせるつもりでいる。
「あいつには感謝すべきかもしれないな。結果的におまえをこの学校に寄越してくれた」
 早瀬の横に腰掛けながら呟く。怪訝そうな顔を見せる早瀬に、準備室の床に散らばったジャケットを拾い上げ、渡してやった。二年間使い続けられたジャケットは少しくたびれて、いくつかのボタンのかがり糸にはほころびも見える。
 このジャケットがまったくの新品だったころ、自分たちが出会ったばかりのころのことを土岐は思い出した。
 二年前の入学式のとき、壇上から見渡した新しい同級生たちの中に見た姿に一目惚れしたのだと、早瀬に言ったら果たして信じるだろうか。
 そうは言っても今にして思えば、の話だが。
 華やかな容姿にまず目を惹かれ、慣れない雰囲気の中で毅然としようと虚勢を張りながらも、時折どこか不安げに視線をさまよわせている様子に、不思議なくらい意識を惹きつけられた。ほんの一瞬ではあったが、自分でも信じがたいことに、土岐は新入生代表の挨拶の言葉を忘れかけさえしたのだ。
 同じクラスになったのは偶然でも、行成の積極性に乗じる形で入学の日から言葉を交わすようになり、同じ部活に誘ったのは偶然ではない。時間をかけてじっくりと自分の思いを見極めようとしている間に、早瀬も土岐のことを意識し始めたのは嬉しい出来事だった。
 いつから好きになったのかと、かつて早瀬から聞かれたとき、「毎日熱心に見詰めてくるからほだされた」と答えたが、あの言葉は本当は正確ではない。土岐もまた特別な意識を持って眺めていたからこそ、早瀬の微妙な変化に気づくことができ、同時に自分の想いを確かなものにすることができたのだ。
 いずれ、もっともっと自分のことを意識させてみせる。そのとき、早瀬はいったいどんな顔を見せてくれることだろうか。
 楽しみに思いながら、まずは自分の想いを伝えようと、土岐は早瀬の耳元にそっと唇を近付けた。

――END――


最後までお楽しみいただき、ありがとうございました!
もしご感想などありましたら、一言なりとお聞かせいただければ幸いです。



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