【東京大正夜話】



貴方は非道い御方です、と。
それが秋緒あきおの口癖であった。
同じ男に肌を曝す屈辱の下、抗うことすら許されない哀れな青年は、恨みを込めた声で低くすすり泣く。常は凛と澄んで響く彼の声は、今は明らかな欲に濡れてはしたないほどうわずっていた。聞き慣れている藤島ふじしまですら、間近で囁かれるとぞくりと肌が粟立つほどだ。
哀れな、と、眇めた眼で彼の乱れる様を眺めつつ、藤島は絵筆を走らせ続けている。
ほの暗い蔵の中、手元を照らすカンテラの灯火がゆらゆらと細く揺れていた。白い和服の前を乱された青年は、黒々と太い梁にかけ渡した紅い紐に吊されて、あられもない姿で己の欲を彼の主人に曝している。
匡仁ただひと様…」
放り出された情欲を持て余し、秋緒は弱々しく身を捩った。身じろぎを繰り返すたび、しなやかに伸びた細い腕に、眩しく白いふくらはぎに、幾重にも巻き付いた紅紐が生き物のように食い込んでいく。
「匡仁様…どうかもう、お情けを…」
消え入りそうな声は、媚を含んで擦れていた。その艶めかしさに、藤島は満足げに微笑を刷く。
たっぷりと潤んだ黒い瞳。薄紅に染まった白磁の膚。
筆も乗ってきたところだが、今日はそろそろ限界だろう。立ち上がったところを愛惜しげに見つめて、鷹揚に頷き、許しをやった。
「よいよ、おいき」
「匡仁様…!」
悲鳴のような声で名を呼んだ瞬間、
哀れな青年は、一指も触れられることなく果てていた。


    *  *  *


「匡仁様」
澄んだ声に名を呼ばれて、藤島は書物から視線を上げた。
陽のたっぷりと当たる南向きの窓辺で肘掛椅子に座り、本を読むのが彼の日課だ。
家の爵位は長兄が継ぎ、家業の貿易商は次兄が継いだ。妹のように嫁ぎ先選びにあくせくすることもなく、今年二十六になった三男は、至って気儘に生きることを許されている。
日がな一日本を読み、気が向けば夜会に出掛けていく。社交界では大層有名な美丈夫だったが、彼の特異な趣味を知る者は少なかった。「鷺沢春叢さぎさわ しゅんそう」という雅号を持ち、春画を描かせれば当代随一の鬼才である。
その彼は、傍らで上衣を差し出す給仕の青年に目をやって、「どうしたね」と穏やかに尋ねた。
「大奥様がお呼びです」
睫毛の長い目を伏せがちにして、秋緒は静かに控えている。
相手の名を聞いた瞬間、話の内容にも察しがついて、藤島はひそかに嘆息した。おそらくこの青年も、既に話の概要を知っているのだろう。それでもこうして何事もなかったかのように接されると、さすがに胸がむなしく冷える。
「ありがとう」
秋緒が差し出す上着に袖を通し、祖母の部屋に向かった。
「お婆さま、匡仁です」
「お入りなさい」
東南の和室に端座し、茶を点てていた祖母は、腰を下ろした匡仁の前にすっと椀を差し出した。
上品な藤色の和装がよく映える、八十を超えてなお矍鑠とした夫人である。彼女から見れば匡仁などほんの青二才、とても一筋縄ではいかない相手だ。
「頂戴します」
断って、まずは一服口に含んだ。
「呼んだのは他でもありません、山村のお嬢様のこと」
藤島が茶椀に口をつけると同時に、祖母は話を切り出した。気付かれないほどわずかに眉をひそめて、藤島は手元の碗に目を伏せた。
(やはりな)
十五の年で引き合わされた六歳年下の婚約者とは、この年まで結婚しないままのらりくらりとしてきたが、彼女が二十歳になったのをきっかけに、三月前に結納を交わしている。
だが、正直言って、藤島はどうしても結婚には積極的にはなれなかった。
どうせ、こちらと同じく家柄のためだけに仕組まれた結婚だ。祖母や母をはじめとして家柄のよい女性は見飽きるほど見てきたが、彼女達はあまりにも無邪気にすぎて、藤島を楽しませるには至らなかった。婚約者もまた然りだ。残念ながら藤島の身体の欲求は女性には向いておらず、結婚してもせいぜい「春叢」の仕事に眉をひそめる存在が増えるだけなのは明らかだった。
(わずらわしい)
藤島の心の内を知ってか知らずか、祖母は慣れた手つきで服紗を捌きながら続けている。
「山村侯爵家では、お父様の胤光たねみつ様のお具合が芳しくありません。先方は一刻も早く式を挙げて、貴方に爵位を継いでほしいとのこと。貴方も依存はありませんね」
もはや問いかけですらないその言葉に、藤島は甘んじて「はい」と答えた。逃げ回ったところで、どの道まぬがれ得ぬことだ。諦めはとうについている。
「それでは挙式は三ヵ月後ということで、先方にはお話しておきます」
話は終わったとばかりに藤島が置いた茶碗を取り上げ、祖母は仕舞いの所作に入った。
(秋緒)
険しい目つきで祖母の手元を注視し、藤島はこわばった心をほぐすように、清楚な愛人の微笑を思い浮かべた。



「彼を僕にください」
家令の鷺沢が初めて息子を連れてきた日、藤島は父に言ったものだ。
その頃既に爵位は十も離れた長兄が継ぐことが決まっており、幼い藤島の目から見ても稼業を継ぐのは次兄であろうと思われた。今でこそ気軽な三男だが、幼い頃の藤島は、三男ゆえに両親の情を得られずに、孤独を食んだ子供だった。自分にはなにもない。子供心にそう思い続けた矢先に生まれたのが秋緒だった。
生まれた子は、何度か会ったことのある夫人に似て、ふっくらとやさしい面立ちをしていた。小さな紅葉のような手をつつくと、きゅうっと指先を握られる。その、なんともいえず甘美な力。
父の傍に影のように仕える鷺沢は、普段から藤島によくしてくれた人物の一人だった。彼の愛情を受けて育つ子。理屈もなく「欲しい」と思ったのだが、父も鷺沢も大層よろこんだものだ。
そうして主人と奉公人の立場でありながら、藤島と秋緒は共に育った。四歳の年の差を隔て、友というよりは兄弟と呼ぶ方が近かったかもしれない。秋緒は常に従順に藤島に従い、時に置いていかれまいと懸命に努力して、藤島の心を満たし続けた。
二人の関係が変わったのは、藤島が初めて女性を経験した夜だ。元服の添伏にあてがわれた名も知らぬ女性との閨事は、藤島の若い身体を満たしはしたものの、心を満たすまでには至らなかった。
絶望した藤島は常になく荒れて、泣いて嫌がる秋緒を無理矢理抱いた。まだあどけない少年の面影を残していた秋緒は、けれど、最後の一線で主人を守った。彼の身体を思うさま陵辱した匡仁を、だれにも言いつけることはしなかったのだ。
やがて父が支援していた画家に見初められて筆を執った藤島が、絵の題材に彼を選んだのも、いわば当然のなりゆきだった。
鷺沢春叢―――
藤島の家では家内すべてが目を背け、一目たりとも見ようとはしない。だが、男とも女ともつかぬ人間の妖艶滴る痴態を描く春画家は、今や業界では押しも押されもせぬ存在である。
その藤島は今夜も秋緒をともなって、アトリエにしている蔵の一つに籠もっていた。
「秋緒、おいで」
昼に聞かされた縁談から逃げるように、秋緒に向かって手を伸ばす。今日ほど藤島が秋緒を抱きたいと思ったことは、ついぞなかった。
あのしなやかに張った膚が欲しい。あの熟れた秘所に包まれたい。なにもかも包まれるように、あの腕で眠りたい。
常ならば「描きたい」衝動の方が上である。だが、今はひたすら秋緒を抱きしめたいと痛烈に思った。
だが、秋緒は深く俯いたまま、動こうとはしない。
「秋緒?」
怪訝そうな藤島に、秋緒は震える声をようやく絞った。
「匡仁様、もうやめましょう」
「―――」
表情を変えず見つめる藤島を、秋緒は震えながらもまっすぐに見据える。
「匡仁様は、奥様をお迎えになるのです。もう…」
おやめください、と。
口にする言葉を飲み込む勢いで唇を重ねた。
「おまえね」
激しい口付けに息も絶え絶えの秋緒を組み伏せ、藤島は薄く微笑んだ。
無理矢理抱いた最初の日を除けば、初めて秋緒が抵抗を口にした。自分でも驚くほどの怒りとくやしさが突き上げる。長い間、慈しみ愛してきた存在を、これほどまでに壊してしまいたいと思ったのはこれが初めてだった。
「おまえね、私にそんなことを言える立場だと思っているのかい」
残酷な言葉を敢えて口にした。言った途端に、自分自身を嫌悪した。だが、言わずにいられない。愛惜しい気持ちと破壊の衝動が同時に胸を掻き乱す。
「ねぇ、秋緒。おまえはいったい、誰のものだい?」
「―――」
絶望の眼差しで秋緒は藤島を見上げた。
「そんな目で私を見るな」
藤島もまた絶望していた。
自由になれない自分に。それでも秋緒を愛してしまう自分に。心のままに「愛している」と言えたら、どんなにか幸せだろう。
あきらめたように、強ばっていた秋緒の身体から次第に力が抜けていく。しなやかな身体を床に敷いた布の上に横たえ、ついと顔を背ける。夜の湖のようにうるんだ黒い瞳から透明なしずくが零れ落ち、頬をつたって床に小さな染みを作った。
匡仁は指先でそっとその肌をたどる。
磁器のようになめらかな隆起を見せる腕。芸術的な陰影をつける貝殻骨。尖った頤。
紅を刷いたように濡れた口唇に指を含ませ、怯える舌をまさぐり出す。
「ん…」
上顎を撫でると、まるで堪えきれないというように、甘い声が溢れ出した。涙がまた一筋、涼しい眦を伝い落ちる。
「秋緒…」
名を呼んできつく見つめ合ったまま、再びそっと口唇を落とした。すっと通った鼻筋に、涙を乗せた長い睫毛に、誘うように開く口唇に―――
「秋緒」
破壊の衝動が過ぎ去ると、そこには尽きせぬ愛惜しさだけが残った。強く、あらん限りの力で強く抱き締めて、それでも足りないと奥歯を噛む。
「そばにいて…私のものでいておくれ」
「……」
「私を一人にしないでくれ」
頼む、と。
ささやく声がまるで頑是ない子供のようだ。一人闇夜にとり残されることを恐れる、小さな子供。
は…と自嘲をこめてかすかに笑う。
秋緒はしばらく匡仁のなすがままになっていたが、やがてゆっくりと腕を持ち上げて、覆いかぶさる男の背を撫でた。
「秋緒…」
愛している、と。
その一言が言えぬ男を慰めるように手が動く。
わかっているというように。
かわいそうにというように…。
次第に深くなる愛撫を受け入れて、秋緒はあえかな罪の快楽に溺れた。


    *  *  *


三月が経った。
華燭の典は明日に迫っている。
深夜、ほとほとと寝室の扉を叩く小さな音に、藤島は手もとの小説から目を上げた。
明日の婚儀に備え、家内は既に寝静まっている。寝つけないのは自分くらいのものだろうと思っていたが、扉を叩く音は、小さく、だが確かにもう一度続いて響いた。
「だれだい」
そっと扉を押し開けると、秋緒が伏せ目がちにして立っていた。
藤島は目を見開いた。秋緒の身なりが、深夜のものとは到底思えない様子だったからだ。
一番上等の上着に、余所行きの皮靴。横に携えた大きな旅行鞄。
「どうしたんだい、秋緒、これは」
急ぎ部屋に招き入れ問い詰めると、秋緒はいっそう深く俯いた。
「大奥様が…」
聞こえぬほどに小さな声で、途切れがちに言う。
「先程、大奥様からお暇を出されました。…もう、このお屋敷にはいられません」
申し訳ございません、と。
言葉の最後は震えてうわずっていた。
「ずっとおそばにお仕えすると、お約束いたしましたのに…」
薄い肩が震えている。
呆然とそれを見下ろして、藤木は察した。
もともと隠していたつもりもない。むしろ牽制になればとすら思っていた秋緒との関係を、勿論祖母も承知していたのだろう。承知していながら、今日まで見て見ぬふりをしたのだ。婚儀を明日に控えて、逃げも隠れもできぬ直前まで。
足元が崩れていくような感覚だった。血の気が引き、身の底からしんと冷えていく。
秋緒がこの家からいなくなる。そんな日が来ようとは、考えたことすらなかったのだ。許嫁と引き合わされた時も、婚約を交わした時も、結婚が決まった時ですら、秋緒を失うなどということは寸分たりとも考えたことがなかった。ただ、煩わしい人間が身の回りに一人増える。それだけのことだと思っていたのに。
言い知れぬ憎悪が、胸の底から涌き上がった。
三男と軽んぜられ、何も与えられなかった自分に、秋緒は唯一与えられた幸福だった。膚を合わせ、心を添わせ、慈しみ、愛し、また守られてきた。
今更手放せるはずがない。
それを無理矢理奪い取ろうというのか。
ただ家のため、
爵位のためだけに。
「申し訳ございません…」
秋緒はすすり泣きの下でひたすらに繰り返している。
謝ることはない、むしろ私が悪いのだ、と。
そう言ってやることすらできず、藤島はただ呆然と薄い肩が震えるのを見つめていた。
やがて眦をぬぐって顔を上げた秋緒が、泣き濡れた目をまっすぐにこちらへ向けた。
「匡仁様…。どうか…」
わななく口唇を叱咤して、声を絞る。
「どうか…、どうか、最後に、私にお情けをくださいませ…」
薄紅の口唇が言い終わらぬうちに、藤島は思うさま秋緒を抱きしめていた。
はじめて秋緒が自分から藤島を求めた瞬間だった。
濡れた頬を擦り合わせ、無我夢中で掻き抱く。秋緒も強い力で抱き返してきた。その愛しさ。幸福感。
こんなにも、こんなにも愛惜しいと思う人間を、どうして手放せるというのだろうか。
「愛している」
「匡仁様」
「愛しているよ、秋緒…」
心の底から告げて、藤島は薄い口唇に口付けを落とした。
直に触れ合う膚を。
あえかな吐息を。
「匡仁様」
求める声を、どんなにか愛しいと思うか。
「秋緒」
全身全霊の想いをこめて最愛の者の名を囁きながら、一方で藤島はこの世を呪った。
(この気持ちがわからぬと言うなら、いっそこの世など滅んでしまえばいい!)
共にあることすら許されぬと言うのなら。
心のままに愛することすら許されぬと、言うのなら―――…

だが、どんなに呪っても、夜は無情に明けていく。
「匡仁様」
目覚めの鳥たちが始まりの声を上げる頃、自分の肩を覆っていた藤島の腕をそっと抱いて、秋緒は静かに微笑んだ。
「匡仁様…、どうか、末永く、お幸せに…」
最後の口付けは、苦い涙の味がした。



祝言の支度は粛々と進んでいた。
正午からの婚礼の儀を控えて、花嫁は既に山村の屋敷を出立したという報せが届いた。
慌しく動き回る周囲を拒絶するように、藤島は窓から庭を見つめている。
美しい初秋の空が、高く高く清み上がっていた。
秋生まれの秋緒。初めて会った時、小さなちいさな、紅葉のような手をしていた。
(秋緒)
あの手を握った瞬間から、秋緒が自分のものであったように、自分は秋緒のものであったのだ……
正午前、花嫁が到着したと迎えがきた。
広い玄関に続く弓なりの階段を下りていきながら、自分を迎える下人たちの先頭に鷺沢の姿を見つけた。藤島付きの給仕であった息子がこの場にいないことを、彼はどのように感じているのだろう。よく仕えてくれた彼にも、酷い仕打ちをしてしまった。罪悪感に身を切られるようだった。
それが起こったのは、藤島が玄関のホールに下り立った瞬間だった。
花嫁を迎えるために大きな扉が開かれた、その矢先。
ズンッと足の下から突き上げるような揺れが襲った。立ってすらいられない、上下左右に揺さぶられるような大きな揺れだ。天井のシャンデリアが落下した。悲鳴が轟き、蝋燭の炎が一面の絨毯に、あっという間に燃え広がった。
切り裂くような悲鳴。飛び交う怒号。逆巻く炎の波。崩れ落ちる階段。壁。天井―――
「匡仁様!」
近くで悲鳴が上がった。同時に目の前に炎が広がった。
(熱い)
思う間もなく、頭上の天井が落ちてくるのが目に入る。
(死ぬ――)
熱風と炎に巻かれながら、その瞬間、藤島が思い浮かべたのは、今朝わかれたばかりの、清々しく美しい恋人の顔だった。
(秋緒)
この想いが真実、本物であったから、この世は壊れてしまったのだろうか。
(ならば、それでいい)
「連れていってくれ」
目蓋の裏の面影に微笑みかけ、意識はふっと薄らいだ。


    *  *  *


ぴとり、ぴとり。
(…雨の音がする)
意識が戻ると同時に、顔の右上にひどい痛みを感じた。意識せず、うめき声があがる。慌てた足音がととと…と走り寄ってきた。
「気が付かれましたか」
心配をいっぱいに孕んだ声が訊く。
藤島ははっと顔を上げた。
「秋緒」
だが、目が見えない。くしゃくしゃと不快な軋みを目に感じるばかりで、わずかに映る像はぼんやりと影を結ぶくらいだ。
「だめです、無理をなさらないで。横になっていてください」
覚えのある細い手が、そっと身体を横たえた。
「秋緒。秋緒だね?」
気配の方へ右手を伸ばすと、涙を含んだ声が「ええ」と答えた。手のひらを両手で包まれて、薄い胸が押しつけられる。彼の心臓の音が指先から伝わった。
「秋緒…」
見えない視界の代わりに、その手を掻き寄せる。すんなりとした身体は素直に藤島に覆い被さってきた。
「痛くはありませんか…?」
気遣うように秋緒が訊く。顔の右半分は相変わらず痛んだが、それ以外は小さな痛みが所々あるだけでなんともない。そう告げると、ほっとしたように身体の上の気配が緩んだ。
「目は煙でやられたのです。光が映る程度なら、数日で見えるようになると、お医者様が」
顔の痛みは火傷のせいだと秋緒は教えた。跡は残るだろうが、命に別状はない。
「先刻の地震で、お屋敷はすっかり崩れてしまいました。あの一帯は特に火の回りが速くて、周辺の火事と一緒になって、すべて」
崩れて、焼けて、消えた、と。
藤島はしばらく呆然とその言葉を反芻していた。
あの家は。
藤島公爵家は、地震と火事で消えたという。
では家族は。父は、母は、祖母は、兄弟たちは―――花嫁は、どうなったのだろう。
傍らでは静かな気配が、藤島の心の整理をじっと待っている。
「…ここは」
たずねると、秋緒はちいさく「さぁ…」と笑った。
「私もよくわかりません。貴方を連れて逃げるのに必死で、どこをどう走ったのか…」
朝、藤島と別れて、一度は屋敷を出た秋緒だった。
だが、どうしても藤島の婚礼を一目見ておきたくて、再び屋敷に戻った矢先にあの地震が起きた。煙と瓦礫と炎に埋もれた屋敷から無我夢中で藤島を助け出し、彼を抱えて炎を逃れ、走り続けて半日。ようやく辿り着いたのは半壊半焼の寺で、そこで他の人々と共に医者の助けを得たのだった。
秋緒の語る話をじっと聞いていた藤島の身体の上で、ふ、と頼りなげな気配が動いた。
「申し訳ありません、匡仁様。…勝手なことをいたしました」
「どうして謝ることがあるんだね。おまえは私を助けてくれたのに」
手探りで頭を見つけ、やわらかな髪を梳き撫でる。火事の煙に巻かれたせいか、幾分ゴワゴワとした感触があったが、指に慣れた秋緒の髪には違いなかった。
秋緒が小さく身じろぎをする。
「私は…匡仁様をお助けしたくて…」
思い詰めた声が、涙を含む。囁いた声の後に、口唇を噛む気配がした。
振り切るように声音が変わる。
「お屋敷にお戻りになれますか? 全壊とはいえ、きっと助かった者たちもおりましょう。もし大丈夫なら迎えを呼びにやります」
「ああ…」
思わず微笑が漏れた。引きつれた右の頬が痛んだが、それも今は気にならなかった。
(私は)
じわじわと、幸福の実感が湧いてくる。
(私は自由になったのだ)
撫でていた小さな頭を引き寄せて、
「秋緒、接吻をしておくれ」
ささやくと、温かくやわらかな口唇が落ちてきた。同時に滴り落ちた涙の元を、手探りで拭った。
抱きしめて、万感の想いをこめて言う。
「ここにいるのは、藤島匡仁ではないよ」
「――」
「そうだね、春叢はさすがにまずいから、これからは鷺沢匡仁と名乗ろうか」
それでも、好きでいてくれるかい。
囁くと、ぱたぱたと涙が落ちてきた。
「愛している」
二度と口にしないだろうと思っていた言葉を口唇に乗せて、藤島は幾度も囁き続けた。
「愛しているよ、秋緒」


    *  *  *


又             森歐外
 
お前又忍んできたね、 
闇の夜に。 
あるたけのお前の知恵が 
向不見のお前の熱に負けたのだ。 
 
そして又昔のやうにしろと 
お前は己にねだる。 
せつなかつたかい。 
お前泣いてゐるね。 
 
              Klabund 


*『INDULGE』のユエ様の作品です。カウント10000ヒット記念のお持ち帰り自由小説を頂いてまいりました。
相変わらずの端正で美しい文章に加えて、この滴るような艶っぽさ……。眩暈がしそうなくらいです。芯の強さを持つ秋緒と、意外なほど純情な匡仁は、この後きっと幸せに暮らしたのでしょうね。いいなぁ〜。
ユエさん、とても素敵な小説をありがとうございました♪

ユエ様のサイトはこちら↓